「俺を助けたって、何の得もない。放っといてくれ」 と、死を覚悟していたパパンドレウ氏は、その天使のような人に告げたのだそうだった。 天使のような その人は、 「そういうわけにはいきません。目の前で死にかけている人がいるのに」 と、事もなげに答え、パパンドレウ氏を生かし続けようとした。 パパンドレウ氏は、『死にかけている人間を助けるのは当然』と言わんばかりの その口調に、強い反発を覚えたらしい。 それまでの人生で、人は信じるに値しないものだという考えが、少年のパパンドレウ氏の中には構築されていたから。 「金持ちの自己満足や虚栄心を満たす手助けなどしたくない。人の施しを受けて、偽善者の慈善家が天国に行く手助けなんかしたくない。恵まれている奴等のせいで、俺は今 苦しんでいるんだ」 彼は、死ぬ前に言いたいことを言ってしまおうという気持ちになっていたのかもしれない。 彼の現在の窮状は、その天使のような人のせいで生じたものでないことは わかっていたのに。 パパンドレウ氏に対する天使のような人の答えは、天使らしからぬものだった。 「僕は恵まれているわけではありません。裕福なわけでもない。両親もいない。家もない。自分のものと言えるものは、僕自身の身体と心だけ。罪もたくさん犯している。死後の幸福など望みようもない。最初から、そんなことは無理だと思っています」 「な……なら、俺のことなんか放っぽって、他人を蹴落として、自分だけ這い上がろうとしろよ!」 「あなたの言う“這い上がる”の意味がわかりませんが、僕自身の命は危険にさらされていないので、現状を脱する必要はありません。今、助けが必要なのは、あなたの方です。このパンを食べてください!」 「その見返りに何がほしいんだよ! 見たら わかるだろ。俺は、そのパンの代価も払えない無一文の孤児なんだよ」 その天使のような人間は、パパンドレウ氏の頑なに困り果て、暫時 何事かを考え込む素振りを見せた。 そして、少年のパパンドレウ氏にパンの代価を要求してきた。 「では……あなたが今 死んでしまわずに生き続けて、いつか成功した時、その成功の半分を、このパンの代価として 僕にください」 と。 「成功の半分?」 意味が わからず、問い返したパパンドレウ氏に、天使のような人間は こくりと頷いた。 「ええ。たとえば、今 生き延びて、あなたが 将来 パン屋さんになったとする。その時 あなたの お店から出る利益の半分を僕にください」 この天使のような人間は、やはり天使ではない――と、パパンドレウ氏は思った。 天使が 人間に対して、そんな暴利を貪ろうとするはずがない。 「そんなの、無茶苦茶だ。たった一つの そのパンの代金にしちゃ、高すぎるだろ。高利貸しは地獄に墜ちるんだぞ!」 「でも、僕が報いを求めれば、あなたは このパンを食べてくださるんでしょう? 高すぎるなんてことはありません。あなたの命には、それだけの――いいえ、それ以上の価値があるんです」 「――自分に そんな価値があると思ったわけではありません。命が地球より重いなんて、そんなことは大嘘だ。人の命は、瓦礫の町で舞っている砂埃より軽い。けれど、結局、私はそのパンを受け取った。私は、本当は死にたくなかったんだ。私が あなたに名を訊いたのは、あなたに それを施しだと思わせないため。必ず パンの代価を払ってやると――自分が そう思っていることを、あなたに示すためだった。瞬さん。あの時のパンの代価を払いに来ました」 その出来事を思い出し、あっけに取られている瞬を見て、パパンドレウ氏は どこか満足げだった。 瞬の その顔を見るために、あれから十数年、パパンドレウ氏は生き続け、そして 成功したのかもしれない。 「世の中というものは、本当に不公平にできている。子供の頃の私は、生きるためにパンを欲していたのに、世の中には、パンがありすぎて 死に瀕している人間もいるのです。あれから私は、アテネの町よりは 平穏だったテッサロニキの町に行き、そこで 肥満のせいで心臓が音を上げている 太っちょの銀行家と出会い、売り言葉に買い言葉で、その太っちょを半年で 俺のように痩せさせてみせると 宣言することになった」 そして――。 「匂いだけが異様に甘いパンを作ったんです。ハチミツとバターの香りだけが強烈なパン。甘いものと錯覚させ、満腹中枢を刺激するパン。私は、その銀行家を 当時の私のように ガリガリにすることはできなかったが、彼の体重を10キロ減らすことはできた。彼は、私が考案したパンに投資するだけの価値があると思ったのでしょう。あり得ない額の資金を、私に提供してくれた」 私には、あなたが ひっくり返るほどのパン代を あなたに払うという目標があり、そのためになら どんな労苦も厭わなかった――と、パパンドレウ氏は、少々 自嘲気味に瞬に告げた。 「現在のパパンドレウ・グループの年商は500万ドル。それとは別に、特許使用料や株や債券の金利、不動産があり、その半分を、私は あなたに渡さなければならない。ですが、毎日 売り上げや利益を計算するのは面倒なので、いっそ あなたを妻に迎えたいと考えるようになり――探しましたよ。手掛かりは“シュン”という名、優れた容姿、澄んだ瞳だけ。沙織さんに会えてよかった。少々 衝撃的な事実も知ることになりましたが、それなら 妻ではなく 養子にしてしまえばいいのだと思い直しました」 彼が“シュン”との約束を果たすために努力し 成功を収めたことは ともかく、まさか、彼は その約束のために妻を迎えずにいたのだろうか。 だとしたら、軽率な約束をしてしまったと思う、 いずれにしても、パパンドレウ氏の望みを叶えることは、瞬にはできない相談だった。 「あなたの努力と成功には敬意を表します。あの時、あなたにパンを押しつけて 本当によかったと思う。ですが、僕は あなたのご希望には沿えません。あなただって、おわかりでしょう。あの約束は、あなたに生きていてもらうための方便だった。あなたが 今 こうして生きていてくれることで、僕は十分な代価をいただきました。僕は、これ以上の代価はいりません」 パパンドレウ氏の打ち明け話が終わっても、氷河は 相変わらず 無感動無感情無表情だった。 ナターシャが ひどく不安そうな目で 瞬を見上げてくる。 氷河が何もせず、何も言わずにいるのは、ナターシャの不安を払拭できるのは瞬だけだということを、彼が知っているからである。 瞬は、自分の隣りに座っていたナターシャの肩を抱き寄せた。 パパンドレウ氏と氷河が そんな瞬とナターシャに 静かに視線を投じる。 パパンドレウ氏は、唇の端を僅かに歪めた。 「代価は何としても受け取ってもらいますよ。それが約束だ。そのために、私は成功した。現在の地位と財を築いた。私の成功は、ひとえに、あなたのパンと あなたに その代価を払うという約束の おかげだ。あなたとの約束があったから、私は 努力することができたんです」 あくまでも パンの代価を支払おうとするパパンドレウ氏の断固とした口調は、ナターシャを怯えさせることになったらしい。 ナターシャは 瞬の腕に しがみついてきた。 「マーマはパン屋さんとの約束を守るの? パン屋さんの子供になるの?」 「そんなことはないよ、僕は ナターシャちゃんのマーマだからね。僕は、ずっとナターシャちゃんと一緒にいるよ。だから、心配しないで」 「ウン……」 瞬を信じていないからではなく、パパンドレウ氏の口調が恐かったのだろう。 頷くナターシャの声と瞳は、やはり不安の色を たたえていた。 瞬にパンの代価を支払おうという目的遂行の最大の障害。 それがナターシャだということに、パパンドレウ氏は気付いたようだった。 |