瞬にパンの代価を支払うという目的の最大の障害。
それがナターシャだということに、たとえパパンドレウ氏が気付いたとしても、それで彼に何ができるだろう。
ナターシャの存在を消し去るようなことは、たとえギリシャ1の富豪にも できるわけがない。
――と、氷河は たかをくくっていた。
瞬も、その点に関しては似たようなものだった。

いわゆる大人とは違って、ナターシャに買収は利かない。
ナターシャは現在のパパとマーマとの暮らしに不満や不足はないはず。
もしナターシャが彼女のパパとマーマとの生活をやめたいと望むことがあるとしたら、それは 彼女にパパとマーマより大切な人ができた時だけ――彼女が恋をした時だけ。
だが、その時は 今よりずっと未来。どれほど短く見積もっても、15年は先。
パパンドレウ氏が正攻法でナターシャを説得しようとすれば、説得されるのはパパンドレウ氏の方。
そう、氷河と瞬は思っていたのである。

だから、氷河と瞬は、光が丘公園での 未就学児童を対象としたオカリナ体験コンサートの場に彼が現われた時にも、さほど警戒心を抱かなかった。
否、そもそも 彼が そんなところにやってくることを考えてもいなかった。
数十人の子供たちが集まっている芝生広場に、Tシャツとデニムパンツで現れたパパンドレウ氏を、氷河と瞬は 彼だと思わなかった――気付かなかった。
彼を、オカリナ体験イベントスタッフの一人なのだと誤認していた。
そのラフな格好をした男性がパパンドレウ氏だということに最初に気付いたのは、氷河でも瞬でもなく、彼等の幼い娘だったのである。

「マーマは、ナターシャとパパのマーマなんダヨ。マーマは よそのおうちの子供にはならないんダヨ」
その人物がパパンドレウ氏だと、ナターシャが すぐに瞬たちに知らせなかったのは、彼が瞬を盗みに来たのだと思ったからだったろう。
ナターシャは、危険なパン屋さんからマーマを守ろうとしたのだ。

「ナターシャちゃんが、ママが側にいなくても平気だと言えば、瞬さんは私の許に来てくれる。ナターシャちゃん。瞬さんに そう言ってくれないか」
「マーマはどこにも行かないヨ。マーマは ずっと、パパとナターシャと一緒にいるんダヨ」
「ナターシャちゃんが、瞬さんに、側にいなくても平気だと言ってくれたら、お姫様のドレスとティアラをプレゼントしよう」
「ナターシャは、お姫様のドレスよりマーマの方がいい」
「じゃあ、お城のようなおうちを建ててあげよう」
「ナターシャのおうちは、パパとマーマのおうちダヨ。ナターシャ、マーマのいないおうちは いらないヨ」
「それなら――」






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