氷河と瞬が、ナターシャの様子がおかしいと気付いたのは、玩具のオカリナをもらった他の子供たちが イベントスタッフたちの指導を受けて オカリナを鳴らそうと奮闘し始めたのに、ナターシャだけが いつまでもスタッフの一人と話し込んでいて、一向に オカリナを吹こうとし始めなかったからだった。

「極悪パン屋! 何をしている!」
その段になって、ナターシャが話し込んでいる相手がパパンドレウ氏だということに気付いた氷河が、大声をあげて、オカリナ体験イベントに参加している子供たちでいっぱいの芝生広場に踏み込んでいく。
オカリナ相手に奮闘していた子供たちは 氷河の剣幕に驚き、その視線を 一斉に 金髪の闖入者の上に投げてきた。
しかし、これは緊急事態の非常事態。
周囲のすべてを綺麗に無視して、氷河は ナターシャの方に両腕を差しのべた。

「ナターシャ、こっちに来い」
「パパーっ!」
死か絶望か――何か恐ろしいものから逃げるように 腕の中に飛び込んできたナターシャを抱え上げると、氷河は 申し訳程度にイベントスタッフに目だけの合図をして、足早に芝生広場を出たのである。
ナターシャは、世界の終末の予言に怯えている人間のように、氷河の首に両手でしがみついている。
子供たちで ごった返す芝生広場から 人気(ひとけ)の少ない憩いの森の方へと急ぐ氷河を、瞬は追いかけ、そのあとを ゆっくりした足取りで パパンドレウ氏がついてきた。

瞬は後悔していた。
何を後悔しているのかは 瞬自身にも わからなかったが、とにかく後悔していた。
いったい何がいけなかったのか――。
“あの時”、死にたいと言い張る少年を、自分は見捨てるべきだったのか。
そうすれば、今、ナターシャは泣かずに済んだのだろうか――。

「氷河……!」
人影のない憩いの森の奥まで来て、氷河は やっと足を止めた。
ナターシャを下に下ろし、のこのこと自分たちのあとをついてきたパパンドレウ氏の胸倉を掴み上げ、氷河は彼を殴ろうとした。
「パパ、だめっ!」
そんな氷河を 押しとどめたのは、瞬ではなくナターシャだった。

ナターシャは泣いている――瞬は そう思っていたのに、ナターシャの瞳は涙を帯びてはいなかった。
今にも泣き出しそうで、必死に涙をこらえるように 唇を引き結んではいたが、彼女は泣いてはいなかった。
ナターシャの前で、(一応)一般人相手に 暴力を振るうわけにはいかないと思い直し、振り上げていた腕を下ろした氷河の手に――その手を なだめるように、すがるように、ナターシャが しがみついてくる。
彼女は そして、氷河に――むしろ、彼女が すがりついている氷河の手に向かって――思いがけないことを言ってきた。

「ナターシャ、マーマいらない。ナターシャはパパと二人でいる」
かすれ 震える小さな声で、ナターシャは そう言ったのだ。
「ナターシャちゃん……?」
「ナターシャ。何を言い出したんだ」
どういう つもりで ナターシャは そんなことを言い出したのか。
ナターシャの意図を確かめるために、氷河はナターシャの前に片膝をつき、ナターシャの顔を覗き込んだ。

「ナターシャは 本当に、瞬と一緒にいられなくなっても平気なのか」
ナターシャに問う氷河の声は、“恐そうに見えるケド、ほんとは優しい”いつものパパの声ではなかった。
パパが“クール”を装うことも忘れ、本当に戸惑っている――ナターシャの言葉が あまりに思いがけなくて信じることができず、パパは混乱している――ことが、ナターシャには わかった。

『ナターシャは 本当に、瞬と一緒にいられなくなっても平気なのか』
平気なわけがない。
平気なわけがあるはずがないではないか。
パパは どうして そんな ひどいことを訊いてくるのか。
パパの残酷な問い掛けが苦しくて、ナターシャの瞳からは、それまで必死に我慢していた涙が ついに零れ落ちてしまった。
かわいそうなパパと かわいそうなナターシャのための涙。
その涙をマーマに見せないために、ナターシャは 氷河の首に 両手で しがみついた。

「ナターシャ、マーマのために我慢するヨ。パパも我慢しよう。マーマのためダヨ。マーマの幸せのためなんダヨ」
「何……?」
「マーマがお金持ちになると、世界の平和がマーマのものになるんだって。パン屋のおじちゃんがそう言ってた」
「何を馬鹿げたことを。金で平和は買えない!」
「でも、パン屋のおじちゃんが……」






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