瞬は、氷河の小宇宙が爆発するのではないかと、それを懸念したのである。
マーマの幸福を願う幼い子供を騙し、その心を利用して、ナターシャに悲しい決意をさせたパパンドレウ氏への怒りのために。
だが、氷河の小宇宙が 怒りで燃え上がるようなことはなかった、
氷河の小宇宙は――氷河の心は、ただナターシャを愛しむ気持ちで いっぱいで、それは瞬も同様だった。

「ナターシャちゃん……」
小さなナターシャの優しさ、素直さ、そして 強さ。
お金持ちになどならなくても――世界中の人が ナターシャと同じ優しさと強さを持つことができたなら、世界の平和など すぐに実現できるだろうに――と、瞬は思った。
瞬のために、氷河がナターシャを抱きかかえて 立ち上がってくれた。
涙で いっぱいのナターシャの瞳が、そこに瞬の姿を映している。
優しく可愛らしい小さな娘のために、瞬は微笑を作った。
本当は、瞬も、涙が零れてしまいそうだったのだが。

「ナターシャちゃん。僕が平和を欲しいと思うのは、ナターシャちゃんや みんなの幸せのためだよ。ナターシャちゃんが泣いていたら、世界が平和になっても、何の意味もないの。ナターシャちゃんが泣いていたら、僕は幸せになれない。僕の いちばんの幸せは、笑顔の氷河とナターシャちゃんと一緒にいることだよ」
「マーマ……ほんと……?」
ナターシャにしては 心細そうな小さな声で、ナターシャが尋ねてくる。
瞬は 自信満々で、力強く 頷いた。

そして、これはナターシャではなく、パパンドレウ氏のためにも、
「世界の平和はお金では買えないの。世界の平和は、世界中の すべての人が ナターシャちゃんみたいに優しい心を持つことででしか実現できないんだよ」
と断言する。
アテナの聖闘士にできることは 所詮、世界中の人々の心が 外部からの理不尽な脅威によって 荒むことがないよう 努めることだけなのかもしれない。
世界の平和は 結局のところ、“世界”に生きている人々の心に かかっているのだ。


「おじちゃん、ゴメンナサイ。ナターシャはマーマに幸せでいてほしいノ。マーマは、パパとナターシャと一緒じゃないと、幸せになれないっテ」
パパンドレウ氏はパパンドレウ氏なりに、瞬の幸福を願っていたのだと、ナターシャは信じているらしい。
それは 誤解ではなく、真実だった。
パパンドレウ氏の その願いは ただ、あまりに 独りよがりすぎ、あまりに瞬の心を無視しすぎていただけなのだ。

ナターシャがパパンドレウ氏に謝るので、瞬までが申し訳ない気持ちになる。
パパンドレウ氏の申し出は、彼の財産が せめて実際の1000分の1の2億円ほどだったなら、この世界に住む相当数の人間が大喜びするに違いない申し出ではあるのだ。
(氷河は 平素の無感動無感情無表情に戻っていたが)ナターシャと瞬に 済まなそうな眼差しを向けられて、パパンドレウ氏は――パパンドレウ氏も――さすがに己れの愚行に気付いていた。
パパンドレウ氏が、微かに首を横に振る。

「そんな申し訳なさそうな顔をしないでください。ナターシャちゃんが マーマのために我慢しようと言った時には もう、私の望みは叶わないと諦めていましたよ。私の望みは 叶ってはいけない望みなのだと、わかった。こんなに小さな女の子が、マーマの幸せのために 自分の幸せを諦めようとするとは――」

パパンドレウ氏は、そうなるように自分が仕向けたにもかかわらず、心のどこかで そうなるはずがないと考えていたのだったかもしれない。
どれほど 幸福そうな家庭も家族も、結局は自分第一。
まして幼い子供が、親のために自分の望みを諦めることなど ありえない。
そんな家族なら 壊してしまうことに罪悪感を抱く必要もない。
彼は、そう思うために、ナターシャに告げたのかもしれなかった。
『マーマの幸せのためだよ』と。
彼の目論見は、だが 裏目に出た。
彼の真の期待通り、裏目に出た。

「金のために 親や友人を切り捨てる人間は多い。幼い子供でも それは例外ではない。そういう人間を 私は幾人も見てきたし、私自身がそうだった。もちろん 少数ながら、そうではない人間がいることも知っている。人が どういう人間になるのか、それを分けるものは――」
パパンドレウ氏は ナターシャと瞬を自嘲気味に見詰め、一度 言葉を途切らせてから、
「育ち……なのか……」
と、悲しげに呟いた。
パパンドレウ氏は ナターシャと瞬のために、自身の望みを叶えることを断念してくれたようだった。
一つ、短い溜息を洩らす。
彼は、そして、思いがけない彼の夢を口にした。

「私も、ナターシャちゃんのように、瞬さんに育てられたかった。私が本当に欲しかったのは、私を愛してくれる両親だったのかもしれない」
「パパンドレウさん……」
それは 瞬と氷河にも恵まれなかった幸運だった。
だが、瞬には、弟の幸福のために我が身を顧みない兄がいたし、氷河には、我が子のために自分の命をすら投げ出した母の思い出があった。
我が子を守ってくれる両親のない孤児ではあっても――瞬と氷河は人の優しさと強さによって育てられた、幸運で幸福な人間なのかもしれなかった。
それは、パパンドレウ氏には恵まれなかった幸運と幸福だったのだ。

「パン屋のおじちゃん、ゴメンナサイ」
パン屋のおじちゃんが ひどく しょんぼりしているので、ナターシャは罪悪感に捉われてしまったらしい。
そんなナターシャに 恨み言をぶつけるほど、パパンドレウ氏も子供ではなかった。
笑顔を、ナターシャのために作る。

「そう。私は とても腕のいいパン屋なんだ。ナターシャちゃんは どんなパンが好きかな? おいしいパンをプレゼントするよ。いや、いっそ、新しくナターシャちゃんパンを作るのもいいな」
「エ……」
沈んでいたパパンドレウ氏が笑顔になってくれたのが嬉しかったらしい。
彼の笑顔に誘われたように、ナターシャは 瞳を明るく輝かせた。

「おじちゃん、ナターシャに 新しいパンをプレゼントしてくれるの? アノネ。ナターシャ、耳のとこがハムやタマゴやトマトの味がする食パンが欲しいノ。サンドイッチを作る時、パンの耳を落とすのが面倒なんダヨ。マーマはパンの手術も上手だから、すごく薄く切れるケド、パパが切ると サンドイッチが ちっちゃくなっちゃうんダヨ」
「耳がハムやタマゴやトマトの味がする食パンか。それはいいアイデアだ。開発してみよう。ナターシャちゃんは、素晴らしいアイデアマンだね。私の会社の企画室に迎えたいくらいだ」
“企画室”が何なのかは わからないが、腕のいいパン屋さんに褒められて、ナターシャは ご機嫌な得意顔。

ナターシャが その優しさゆえに不幸になることがなく、明るく幸福でいてくれるなら、氷河も瞬も パパンドレウ氏を責める気はなかったのである。
たとえナターシャという障害を取り除くことができても、氷河という嘆きの壁の100倍も強烈な壁を打ち破ることは、そもそもパパンドレウ氏には不可能なことだったのだから。
パパンドレウ氏の望みは、最初から見果てぬ夢だったのだ。
腹を立てても無意味である。


『瞬さんを養子に迎えることは諦めます』
沙織経由で、パパンドレウ氏の申し出 取り下げの連絡が 氷河たちの許に届いたのは、その2日後のことだった。






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