「そうなったら、ナターシャの服は全部 よその家の子に譲るしかなくなるだろうな。そして、ナターシャはフリーサイズの ダサいTシャツを着るしかなくなるんだ」 「あの……氷河……」 氷河は本当に何を言っているのか――何を言おうとしているのか。 そんなことを 彼は本気で言っているのかと、瞬は、暫時、本気で悩んでしまったのである。 氷河が いつも――どんな 突拍子のないことを言っている時も、どんな奇天烈なことをしている時も――彼は常に本気だということは、瞬も知っているつもりだったのだが。 氷河の本気に、もちろん ナターシャも 本気で答える。 「ナターシャ、そんなの、いやダヨ! パパとマーマが買ってくれた お洋服は、みんな ナターシャのお気に入りダヨ! ナターシャは、ダサいTシャツしか着れないナターシャには なりたくないヨ! ナターシャ、そんなの、絶対に いやダヨ!」 「俺だって、ダサいナターシャはいやだ」 「ナターシャは、いつも パパの可愛いナターシャでいるんダヨ!」 「そうしてくれると、俺も助かるな。俺は、可愛いナターシャがいいんだ」 「可愛くて優しいナターシャちゃんがね」 何とか 氷河の突拍子のない話の辿り着こうとしている場所だけはわかった瞬が、慌てて『優しい』を追加して、氷河が省略した言葉を補足する。 氷河は、瞬が目眩いを覚えるほどの分別顔で、瞬のフォローを受けとめた。 「無論。優しくないナターシャは、デブでダサい ナターシャより もっと いやだ」 氷河の言葉の選択は、子供の教育上、全く 不適当である。 これでは、ナターシャの 引きこもりをやめさせるという目的を果たすことはできても、ナターシャの心の傷は いつまで経っても消えることはないだろう。 その事態を避けるために――瞬は、氷河の膝の上から ナターシャを奪い取った。 「ナターシャちゃんは、可愛くて、とっても優しい女の子だよ。勇気もある。ナターシャちゃんは、いじめられてる子を助けてあげようとしたんだね。全部、聞いたよ。ナターシャちゃんは偉かった」 「マーマ……」 子供だったパパに、何度 突き放されても 決して挫けなかった、強くて優しいマーマ。 マーマなら、ナターシャの気持ちを わかり、慰めてくれるだろう。 ナターシャは そう思ったのかもしれない――そう思ってくれたのかもしれない。 そして、そう思った途端、(半分は氷河のせいで)張り詰めていたナターシャの心は、瞬時に緩んでしまったらしかった。 「マーマッ!」 ナターシャは、その瞳から涙をあふれさせ、きつく瞬の首に しがみついてきた。 「ナターシャ、あのお兄ちゃんを助けてあげなくちゃって 思ったノ。小犬も助けてあげなくちゃって 思ったノ。だから、助けてあげたノ。なのに、あのお兄ちゃんは、ナターシャがいじめられそうになったら、ナターシャを置いて、自分だけ逃げちゃったノ。ナターシャなら……ナターシャなら……」 ナターシャなら、絶対に逃げない。 どんなに恐くても逃げない。 ひどい目に会うとわかっていても立ち向かう。 立ち向かうことができなくても、決して逃げはしない。 「そうだね。ナターシャちゃんなら……」 ナターシャなら そうするから、そうするのが当然だと思うから、ナターシャは、子犬の飼い主の男の子が 自分を見捨てて逃げたことが 信じられず、理解できず、悲しかったのだろう。 幼い頃から、同じ思いを幾度も味わってきた瞬には、ナターシャの悲しみが よくわかった――痛いほどに わかった。 だが、この世界に、そういう人間は多いのである。 そういう人間の方が多い。 邪悪や不正義や暴力に立ち向かうことができるのは、立ち向かえるだけの力を持った ごく少数の人間だけ。 これは、その少数の人間をパパとマーマに持ってしまったナターシャの不運――悲劇なのかもしれなかった。 だとしたら、ナターシャのパパとマーマは、ナターシャの悲しみの責任を負わなければならないだろう。 瞬は、泣きじゃくるナターシャの肩を抱き寄せて、その頭を幾度も撫でた。 「ナターシャちゃんは、いじめられそうになっている人を助けてあげようとしたんだね。ナターシャちゃんは正しい。ナターシャちゃんは強かったし、優しかった。でも、そうでない人もいるんだ。その小犬のお兄ちゃんが、ナターシャちゃんを庇おうとして、中学生たちに立ち向かって、そのせいで怪我をしてしまったら、ナターシャちゃんは どう思う?」 「……小犬のお兄ちゃんだけでも逃げてた方がよかったと思ウ」 ほとんど迷うことなく そう答えてくるナターシャは 優しい。 『でも、ナターシャなら逃げないヨ!』と言い張らないナターシャは、人の心を思い遣る力も備えている。 その優しさが嬉しくて――ナターシャの肩を抱きしめる瞬の手と腕には 一層 力がこもったのである。 この心優しい少女を、その心と身体を、彼女のパパとマーマは何としても守らなければならなかった。 「うん。僕と氷河もおんなじなんだよ。ナターシャちゃんが一人で危険に立ち向かっていって、それでナターシャちゃんが怪我をしたりしたら、僕たちは とっても悲しい」 「ウン……デモ……」 「だからね。もし いじめっ子や危険に出会ったら、ナターシャちゃんは、まず 僕か氷河を呼んで。心の中で、『助けて』って思うだけでいい。そうしたら、僕か氷河が必ずナターシャちゃんを助けに行くから。氷河は、“ナターシャちゃんを助けるカッコいいパパ”をやりたがっているから、喜んで飛んでいくよ」 「ナターシャ、知ってル」 ナターシャが知っているのは、“瞬か氷河が 必ずナターシャを助けに行くこと”なのか“氷河が ナターシャを助けるカッコいいパパをやりたがっていること”なのか。 ナターシャは知っているのだろうか。 ナターシャが“優しくないナターシャ”だったなら、氷河は彼女を助けにいかないことを。 現にナターシャは“優しい少女”なのだから、そんなことを知る必要はないが、『できるだけ多くの人を助けたい』と思う瞬に比べて、氷河は その点に関してだけは 極めてシビアでクールだった。 彼は、彼にとって 助ける価値がある者をしか 助けようとしないのだ。 「ナターシャちゃんには、ナターシャちゃんを助けてあげたいって思ってる僕たちがついてる。僕と氷河だけじゃなく、星矢も紫龍も一輝兄さんも蘭子さんだって、みんなナターシャちゃんが元気で幸せでいることを願っている。ナターシャちゃんは、そのことを忘れないで。人はね、一人きりだと、誰もが弱いんだと思っていた方がいい。だから、ナターシャちゃんは、一人で無理しちゃ駄目。氷河がカッコいいパパをやれなかったって、しょんぼりするから」 「ウン。ナターシャも、カッコいいパパに助けられるナターシャは好きダヨ」 「だと思った」 ナターシャにとっての“カッコいいパパ”でいたい氷河と、パパにとっての“可愛いナターシャ”でいたいナターシャ。 ここまで需要と供給が噛み合っている父娘も そうはいないだろう。 そんな二人の親子愛が とんでもないところに暴走しないように 手綱を握っているのが、“マーマ”の務め。 瞬は そう考えていた。 「あの小犬のお兄ちゃんがね、小犬の散歩コースを変えちゃったんだって。きっと、ナターシャちゃんに会うのを恐がっているんだ。ナターシャちゃんを助けてあげられなかったことで、子犬のお兄ちゃんも傷付いたんだよ。小犬のお兄ちゃんの気持ちも、ナターシャちゃんは わかってあげてね」 ナターシャには、それは難しすぎるだろうか。 瞬は案じたのだが、瞬に そう告げられたナターシャは、一瞬 驚いたように瞳を見開き、やがて その驚きは静かな同情へと変わっていった。 「ナターシャが 最初に あのお兄ちゃんに会った時、お兄ちゃんのわんちゃんが 悪者に蹴飛ばされて、きゃんきゃん鳴いてたノ。お兄ちゃんは、もう あんなの イヤだったのかもシレナイ……。お兄ちゃんは、わんちゃんを助けてあげたかったのかもシレナイ……」 「うん」 ナターシャは優しい心を持ち、その優しさで 自分以外の人間の心を思い測る想像力も備えている。 ナターシャの優しい推察が嬉しくて、瞬は もう一度 彼女をしっかりと抱きしめた。 |