ナターシャが気付くと、彼女は不思議な場所にいた。 光がないのに、真の闇ではない。 “ナターシャのお部屋”でもない。 ただ薄闇があるだけの広漠とした空間。 人の気配はない。 パパとマーマがいない。 初めての場所のはずなのに、ナターシャは、ここがどこなのかを知っている気がした。 ナターシャは、だが、そこがどこなのかを 思い出したくなかったのである。 ただ ここを出たいと、パパとマーマの許に戻りたいと、ナターシャは それだけを願い、その願いを言葉と声にした。 「パパ、マーマ。ナターシャ、こんなとこ、いやダヨ。ナターシャ、パパとマーマのいるところに戻りたいヨ……」 広い空間に響く自分の声が あまりに か弱く、心細そうに聞こえるので、ナターシャは唇を引き結んだ。 自分の声で不安が増し、自分を追い詰めることを、ナターシャは恐れたのだ。 ここには 誰もいない。 ここには 何もない。 その場にいるのは、自分一人きり。 氷河の娘になってから 孤独を感じる機会が全くなかったナターシャに、“絶対の孤独”としか言いようのない この状況は、心が圧し潰され、思考が麻痺してしまいそうになるほど 恐ろしいものだった。 だから、ナターシャは、 「見るに堪えない ありさまだな。“顔の無い者”の首領の一人であった者が」 という自分以外の何者かの声が聞こえてきた時には、一抹の安堵さえ覚えてしまったのである。 敵意を帯びた者によって与えられる脅威や恐怖は、“絶対の孤独”ほどには恐ろしくない。 闇の中から響いてきた声は、数百年、数千年を生きてきた老人の声のように聞こえた。 声の主が、事実 老人なのかどうかは わからない。 “顔の無い者” その言葉を、ナターシャは知らなかった。 知らないのに、聞いたことがあるような気がした。 すぐに、『思い出してはならない』と、ナターシャの心がナターシャに命じてくる。 「パパとマーマのところに帰して!」 闇からの声の主に訴えるナターシャの声には、少しばかりの力が戻ってきていた。 ナターシャには――もしかしたら、ナターシャ以外の すべての人間にも――“敵すらいない絶対の孤独”より“敵と共に在ること”の方が ましだったのだ。 「そうはいかん。ギルドにはギルドの掟というものがある。掟を破った者を放置すれば、組織の崩壊は必至。裏切者には相応の報いが与えられるべきだ」 「ナターシャを、パパとマーマのところに帰して! ナターシャ、ここはいやダヨ!」 「残念なことだ。ここに来ても 記憶は戻らぬか、ワダツミ」 言葉は嘆いているのに、声は嘆いていない。 抑揚はないのに その奥に大きな感情の起伏が感じられるパパの声とは真逆。 闇の中から聞こえてくる その声には、そもそも感情というものが存在していないようだった――ナターシャには そう感じられた。 声が、冷たく穏やかに言葉を続ける。 「帰してやらぬこともない。記憶がないのでは、ギルドに入った時の契約も憶えていないのだろうからな。今のおまえは アサシンとして使い物にならない」 「ナターシャを、パパとマーマのおうちに帰して!」 憶えていないことを あれこれ言われても、答えを作ることはできない。 ナターシャは 自分の望みを繰り返すことしかできなかった。 私を、幸福な日々の中に帰して! と。 闇からの声には、感情だけではなく 温度もない。 それは、生きているのか死んでいるのか わからない枯葉のように 乾いていた。 「帰してやらぬこともないと言っただろう。おまえの両親になった者たちは、何かと厄介な者たちだ。あの者たちとの対立を鮮明にすると、ギルドも無傷ではいられない。既に犠牲者が相当数 出ている。ギルドとしても、穏便に事態を治めたいのだ。だが、このまま おまえを解放したのでは、他の者に 示しがつかない。ギルドの掟を破った おまえには、破られた掟を完全に修復してもらわねばならぬ」 破った記憶のないものを、どうやって修復できるというのだろう。 どこが破れているのかも わからないというのに。 ナターシャが黙っていたのは、彼(?)に、ナターシャを ナターシャの望む場所に帰す気がないわけではないらしいことが わかったからだった。 パパとマーマの許に戻れるのなら、何でもする。 そう思ったから。 「最後に一つ、大仕事をしてもらう。異例だが……異例も何も、これは前例のない事態だが、最後の大仕事をしたあとでなら、おまえが ギルドを出ることを認めよう」 「最後のオオシゴト?」 “顔の無い者”“ギルド”“ワダツミ”“アサシン”――。 すべて、意味のわからない言葉である。 闇からの声に意味を 問うても、彼は その意味を教えてくれそうにない。 何でも知っているマーマも、ここにはいない。 今のナターシャに わかるのは、闇からの声の言う“最後の大仕事”が、テーブルにランチョンマットを敷くことや 食器を運ぶことではないだろうことだけだった。 闇からの声が ナターシャに求める“最後の大仕事”は、もちろん そんなことではなかった。 もし 声の主の求める仕事が テーブルセッティングだったなら、ナターシャは、それが100万人分でも1000万人分でも 喜んで やり遂げたのに、声は そんな容易な仕事をナターシャに求めてはこなかった。 「そうだ。アテナを殺すという大仕事だ」 事もなげに、声が言う。 “大仕事”と言うからには――それが容易な仕事でないことは、声の主もわかっているようだった。 あるいは――声の調子が 全く変わらないところをみると――もしかしたら、声の主は、それを本当に 容易な仕事だと思っているのかもしれなかった。 “容易な大仕事”というものが存在しないとは言い切れない。 声の主の真意はともかく、それは、ナターシャには“容易”でも“困難”でもなく、“できない”仕事だった。 “アテナ”というのは沙織さんのことである。 パパとマーマにとって、とても大切な人。 世界にとっても、大切な人。 ナターシャは、そう教えられていた。 教えられていなくても――アテナでなくても、大切な人でなくても、そんなことができるわけがない。 人を殺すことなど、できるわけがない。 そんなことをしたら、そんなことをしたナターシャを パパとマーマが どう思うか――どうするか。 その時、何が起こるのか、ナターシャには、想像もできなかった。 「ナターシャ、そんなことできないヨ! ナターシャは、優しい いい子なんダヨ。パパとマーマが、いつもそう言ってる」 「それができないなら、おまえは永遠に この空間に閉じ込められたまま、元の世界に戻ることはできない。愛と光に満ちた幸福な――吐き気がする あの世界に」 闇から聞こえてくる声に、初めて感情が見えた。 忌々しげな声――愛も、光も、幸福すらも憎んでいるような声。 ナターシャは ずっと、その声の主を、人間を超越した、何か大きな存在なのだろうと思っていた。 たとえば、“神”と呼ばれるような、特別な存在なのだろうと。 だが、そうではなかったのかもしれない――と、ナターシャは初めて思ったのである。 この声の主は、卑しく小さな何者かが その卑小にふさわしくない大きな力を持ってしまっただけの存在なのかもしれない――と。 それは不幸なことである。 大きな力は、マーマのように優しい人が持つのでないと、多くの人を苦しめる。 ナターシャは戦慄した。 たった今――今こそ、どうすればいいのかをマーマに教えてほしいのに、マーマは ここにはいないのだ。 |