一度 感情を垣間見せてしまうと、闇からの声の主は、自分を隠そうとする気持ちを失ってしまったらしい。
彼は、突然、堰を切ったように、余計なお喋り、意味のない お喋りを始めた。

「山の老人伝説を知っているか。我がギルドの先駆といっていい暗殺教団ハッシャーシーンが、どうやって組織の暗殺者を増やしていたか、その手法が巷間に流布されて、世界中に広まった伝説だ。教団の指導者“山の老人”が、頑強な身体を持つ若者を麻薬で眠らせて秘密の楽園に運び、そこで 歓楽を極めさせる。その後、再び麻薬で眠らせて、元の村に戻す。若者たちは、当然、楽園への帰還を望む。山の老人は、そんな若者たちに 自分への忠誠を誓わせ、暗殺を行わせる。暗殺教団ハッシャーシーンは、暗殺者“アサシン”の語源となった言葉だ」

声は、何を言いたいのか。
ナターシャには わからなかった。
わかる必要があるとも思えなかった。
ナターシャが今 知りたいことは、アテナを殺さずに パパとマーマの許に戻る方法だけだったのだ。
だが、闇の声の主は、ナターシャの期待に応えてくれなかった。
もしかしたら、彼は、ナターシャが欲しいものを持っておらず、ナターシャが知りたいことを知らないだけだったのかもしれない。

「今のおまえは、その逆だな。あの偽の両親の許で、おまえは幸福を知った。あの両親のいる世界が、おまえにとっての楽園というわけだ。胸糞の悪くなる楽園だが――ギルドを抜け、腐った菓子のような あの楽園に帰りたければ、暗殺者としての仕事を果たせ」
「そんなことできないヨ! ナターシャは パパとマーマの優しい いい子なんダヨ!」
闇の声の主は、やはり ナターシャの欲しいものを持っておらず、ナターシャが知りたいことを知らないようだった。
闇の声の主は、彼が欲するものと 彼が知っていることだけを、ナターシャとナターシャの耳に 押しつけてくる。

「暗殺の術も忘れた おまえのために、お膳立てはしてやる。触れただけで死ぬ猛毒が塗られた針をおまえに与えよう。子供の姿、黄金聖闘士の娘の姿をしたおまえになら、アテナも油断し 接触を許すだろう。記憶が戻らないのも、標的に警戒心を持たせずに済んで、好都合だ。おまえは容易にアテナに近付くことができる。女神アテナと言えど、今の彼女の肉体は ごく普通の非力な人間のそれ。他の人間と同じ方法で命を奪うことはできる。女神アテナを殺したとなれば、おまえのせいで失墜したギルドの威信も旧に復すだろう。ギルドとしても、『伝説になり得るほど大きな仕事をしたことへの褒賞として、おまえに ギルドを出ることを許した』という前例を作ることは 決して悪いことではない」

闇の声が何を言っているのか、全く理解できない。
ただ、その最後の大仕事をしたら、自分がパパとマーマの“優しい いい子”のナターシャでいられなくなることだけは、ナターシャにもわかった。
アテナを殺して パパとマーマの許に戻っても、パパとマーマは、以前と同じように ナターシャを彼等の娘として受け入れてくれない。
パパは、自分のことばかり考えて、自分以外の人に優しくできず、傷付ける子が嫌いなのだ。

「できるわけないヨ! ナターシャのパパとマーマは正義の味方なんダヨ! そんなことしたら、ナターシャは いい子じゃなくなる。パパは ナターシャを嫌いになる。ナターシャが悪い子になったら、マーマは きっと泣いちゃうヨ! マーマを泣かせたら、パパは……パパは……」
パパは、いい子でなくなったナターシャの命すら 消し去ろうとするだろう。
パパは、他人を傷付ける悪者の殲滅をためらわない。
パパは その力を持っている。
パパの そんな一面を、ナターシャは知っていた。

「あの偽りの両親の許に帰りたいのだろう? そのためには、おまえは アテナを暗殺するしかないんだ」
「ナターシャ、パパとマーマに会いたいヨ……」
ナターシャが欲しいものを持っておらず、ナターシャが知りたいことを知らない声の主と ナターシャの会話は、全く噛み合わなかった。
ナターシャもまた、闇からの声の主が欲しいものを持っておらず、闇からの声の主が知りたいことを知らないのだから、それは当然である。
二人は、自分が求めるものを『欲しい』と訴え続けるしかないのだ。
相手が折れる、その時まで。






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