翌日、瞬が氷河の店に着いたのは、開店から30分が過ぎた頃、あと数分で6時半になる頃だった。 「マーマ、いらっしゃいマセダヨ!」 氷河の店では ついぞ聞いたことのない熱烈な歓迎の言葉が、瞬を迎える。 客は、カウンター席に濃紺のスーツを着た男性が一人いるきり。 おそらく、他の客が来ないよう、事前に手配済みなのだろう――瞬は、全く稼ぐ気のない氷河に呆れ、同時に この店のオーナーに申し訳ない気持ちになった。 「可愛いバーテンダーさんだね」 さすがにカウンターの中には入れていないが、ナターシャはバイト用の蝶ネクタイをしていて、“パパのお手伝いができる いい子のナターシャ”に ご機嫌である。 いい子のナターシャは、人に対して偏見がなく 屈託もないが、人の悪意や害意を察知する能力に優れている。 そのナターシャがリラックスしているということは、今 この店に 激しい害意や攻撃性を抱いた人間は一人もいないということだった。 氷河の事前の手配を承知の上で、瞬は あえて客の少なさに言及した。 「……しばらく来てなかったけど、蘭子さんの目論見は外れたみたいだね」 シュラは カウンターの中で真面目に勤勉にグラスを磨いていて、蘭子が特別手当てを出しているという肝心の顔が よく見えない。 シュラのことであるから、彼は、どんな客に対しても――女性客に対しても――公平に、平等に、真面目かつ勤勉な(= 不愛想で愛嬌もない)態度を示しているに違いなかった。 「てっきり開店から 若い女性客が押しかけてきているものとばかり思っていたのに……。蘭子さんの計画では、イケメンを揃えれば、二人目当ての女性客が増える――はずだったんじゃなかった?」 「俺もシュラも女に好かれるタイプじゃないからな」 「んー……」 肯定しても否定しても 角が立ちそうだったので、瞬は曖昧に笑って、コメントを付すことを避けた。 代わりに、もっと角が立ちそうなアドバイスを口にする。 「氷河もシュラさんも、もう少し愛想をよくした方がいいかもしれないね」 曖昧に笑うことすらせず、氷河がコメントを避ける。 代わりに氷河は、眉ひとつ動かさずに、視線でカウンター席の客が 問題の客だと 瞬に示してきた。 教えられなくても、客は彼一人。 瞬は瞬きで氷河に頷いた。 噂の挙動不審客は、瞬を見て、びっくりしたようだった。 初めて会う人に驚かれるのは いつものことだが、その驚き方が、彼は 他の大多数の人間のそれとは違っていた。 彼は、他の大多数の人間とは異なり、瞬の特殊な容姿に驚いたわけでも、瞬の特殊な雰囲気に驚いたわけでもないようだった。 瞬が にっこり笑いかけても、顔を強張らせるばかりで、大抵の人間が そうするように、瞳を見開いたり、頬を紅潮させたりすることもなかった。むしろ、その逆。 それでなくても顔色がいいとは言えなかった頬から 更に血の気が引く。 不審客の頬は、土気色さえ帯び始めていた。 どう見ても、彼は瞬に、恐怖、脅威、不安に類するものを感じている。 だが、いったいなぜ。 瞬は――乙女座の黄金聖闘士は――小宇宙を生んではいないし、もちろん、彼への敵意や害意を抱いてもいない。 表情にも所作にも、攻撃的なものは全く見せていない。 だというのに、いったいなぜ。 彼の萎縮に気付いていないふうを装い、瞬は、彼との間に一つ椅子を置いて、カウンターの席に腰掛けた。 「こんな不愛想なバーテンダーが二人もカウンターにいたら、女性はもちろん、男性だって恐がりますよね」 瞬が話しかけても、挙動不審客からの返事はない。 答えは、ナターシャから返ってきた。 「ナターシャは恐くないヨ! パパはカッコいいし、シュラは面白いヨ!」 「シュラさんは恰好いいでしょう。面白いのは氷河の方なんじゃない?」 「パパ、面白い? ソウカナー?」 真剣に悩み出したナターシャに笑いかけながら、瞬が ちらりと不審客の表情を窺う。 問題の客は――なぜか ナターシャを見る目は優しかった。 ナターシャの意見に賛同しているわけではないのだろうが、彼は、悩めるナターシャの上に視線を落とすと、僅かに緊張を解いた――ように見えた。 不審客が、その目許、口許に、ほっとしたような安堵の表情を浮かべる。 しかし、それが氷河には気に入らなかったらしい。 不審客の そのちょっとした変化だけで、氷河は、彼を幼女趣味の変質者と決めつけてしまったようだった。 挙動不審客を 不審と感じた訳は それだったのだと一人で合点し、氷河は、彼を店から追い出したがり始めた。 しかし、瞬には、彼が幼女趣味の危険人物だとは思えなかったのである。 彼がナターシャに向ける眼差しは、たとえて言うなら、ソマリ語を話す人間しかいない村にやってきた米国人のそれに似ていた。 英語を話せる人間が どこにでも一人はいるはずだと たかをくくって、通訳も連れずに 現地の人間しかいない村にやってきた米国人が、瞬に『 May I help you ? 』と声をかけられた時、今の彼のような顔になる。 が、そんなはずはない。 ないはずだということを確かめるために、瞬は 日本語で 彼に尋ねた。 「あの……ご気分が優れないんですか?」 「なぜ わかるんだ」 「は?」 まさか、そんな反問をされるとは。 彼の声と言葉は、ほとんど 挙動不審者に職務質問をする警察官のそれだった。 彼は かなり苛立っている。 そして、その苛立ち方は、猫に噛みつく窮鼠そのもの。 バーには 人との関わりを避け、一人になるためにやってくる客もいるというのに、自分は初対面の人に気安く 馴れ馴れしくしすぎたのだと、瞬は自身の軽率を反省した。 「不躾にすみません。僕は医者なんです」 二人の そのやりとりに、氷河が むっする。 氷河にとって この状況は、“幼女趣味の変質者が、変質者の分際で、親切心から出た瞬の気遣いを無下にした”だった。 この店の商売気のないバーテンダーは、自分の気に入らない客を 自分の店から追い出すことに躊躇しない。 「医者でなくても わかる。冥界の法廷に引き出された極悪人のように 真っ青になって、がたがた震えていたら」 氷河に半眼で 睨まれ、そんなことを言われたら、大抵の人間は、それこそ“真っ青になって がたがた震える”ことになるだろう。 不快な客に(不快なだけの客に)いちいち そんなことをしていたら、氷河の店には 本当に客が来てくれなくなってしまう。 瞬は、氷河を 婉曲的に たしなめた。 「わかっているなら、お水を差しあげて」 「ウチは水はチャージ料に含まれていないんだ。勝手に出せん。押し売りになる」 「じゃあ、僕からってことで」 「どうして、おまえが」 「どうしても、こうしても……目の前に具合いの悪そうな人がいたら――」 『医者でなくても放っておけるわけがない』 瞬がそう言おうとした時、氷河より鋭い声で 瞬たちを責めて(?)きたのは、瞬が体調を案じた当の挙動不審客だった。 |