氷河を静かにするという仕事を終えた瞬が、リビングルームのソファに座っている星矢と紫龍の方に、ゆっくりと視線を巡らせた。 「蘭子さんは、不思議の国のアリスの衣装で、サンバを踊るつもりみたい。どうしてアリスなのかは、僕にも よくわからないんだけど……」 瞬に静かにさせられてしまった氷河を、星矢と紫龍が気の毒そうに見やる。 だが、氷河の相手をする気にはならない紫龍は、暗く沈んでいる氷河を無視し、意識して 瞬にだけ相対した。 「不思議の国のアリス? 敵方に そういうのがいなかったか? アイオロスからクレームが来ても知らんぞ」 「さすがに、アイオロスも、数十万人の一般人が楽しんでいるサンバカーニバルに 攻撃を仕掛けてくるようなことはしないでしょう。そんなことをしても、蘭子さんのサンバチームの凝った演出だと思われるだけだし」 「“愛の平等”への攻撃。愛の平等を守るために、襲撃者を迎え打つサンバチームか。スペクタクルだな」 そんなものは絶対に見たくないと、言葉にはせず 眼差しで、紫龍が告げる。 「俺は ちょっと、かなり見てみたいかなー。蘭子ママのアリス VS アイオロス。アイオロスが真面目に攻撃すればするほど、笑える事態になりそうじゃん 」 星矢は恐いもの知らずなのか、無責任なのか。 嫌そうな顔になった紫龍を、 「おまえは、何事も真面目に考えすぎなんだよ、紫龍」 と、星矢が笑い飛ばし、星矢に笑い飛ばされた紫龍は、 「不真面目すぎるより、ましだ」 と、拗ねた。 そんな二人の間に、“カーニバルが楽しみ”という点では 星矢の側に立つナターシャが、執り成しに(?)入る。 「蘭子ママは、蘭子ママサイズのアリスのエプロンドレスを特注したんだって。ナターシャは 水玉きのこのコスプレをするヨ!」 「ナターシャがアリス役ならともかく! ママはアリスというより、ドードー鳥かジャバウォックだろう!」 一度は静かになった氷河が、また息を吹き返したのは、サンバチームの配役への不満を思い出したからのようだった。 この場に雇い主がいないのをいいことに、氷河は言いたい放題である。 “パパ”のそういう振舞いは、教育上 好ましいことではないので、ナターシャには見せたくない。 氷河のためというより ナターシャのために、瞬は、氷河を“聞き分けのいい子”にしなければならなかった。 「氷河に帽子屋さんや白ウサギの衣装をつけて、チームの一員としてサンバを踊るように言ってこないあたり、蘭子さんも気を遣ってくれてるんだよ。カーニバルの人混みを避けて、お店にいていいって言ってくれてるんだから、有難く思わなきゃ」 「瞬。おまえはどっちの味方なんだ!」 「氷河の味方だよ、もちろん。知ってるでしょう」 「……ならいいが」 瞬に『氷河の味方』と断言されて、氷河は再度、今度こそ本当に 聞き分けてくれたようだった。 氷河は、サンバチームのメンバーとしてサンバを踊るように言われているわけではない。 最悪の事態は免れているのだ。 にもかかわらず、不満たらたら。 文句を言いたいのは、星矢の方だった。 「俺と紫龍は、蘭子ママの雇われ人でもないのに、ナターシャのお守り 兼 誘導係として、カーニバルの大騒ぎの中に駆り出されるんだぞ。おまえは、騒ぎから離れたとこにある店で 店番をしてればいいだけだろ。文句 言うなよ。男らしくない」 「まったくだ。カーニバルまで あと3日という時になって、こんなふうに騒ぎ出すなんて、往生際が悪すぎる」 星矢と紫龍は、あくまで氷河を責めたつもりだったのだが、それで 済まなそうな顔になったのは、瞬の方だった。 元はといえば、蘭子がサンバカーニバルへの参加を決めたこと。 更に遡って 元凶を求めれば、それは 育児能力もないのに 幼い子供を自分が養育すると決めた氷河にあるのだが、星矢たちにカーニバル当日のナターシャのボディガードを依頼したのは、氷河でも蘭子でもない、瞬自身だったのだ。 「ごめんね、星矢、紫龍。僕も、当日は、午前中の診療が終わったら、すぐに駆けつけるから」 「謝ったりしなくていいって。おまえは仕事なんだから、仕方ないだろ」 元凶である氷河当人は、自分に非があるとは考えてもいないのに、ナターシャは、パパが責められていることが わかったらしい。 ナターシャは、ナターシャにとっては当然のことなのだが、氷河の弁護にまわった。 「パパは、アリスはナターシャがやるべきだって、蘭子ママと戦ってくれたんダヨ!」 「でも、負けたんだろ」 「そ……そんなことないヨ!」 パパが責められることも、パパが負けたことも認められないナターシャが、星矢に抵抗する。 だが、ナターシャは、続く言葉を思いつけなかった。 瞬が、パパの名誉を守ろうとするナターシャの援護にまわる。 「アリスは、カーニバルチームの主役で、パレードの間中ずっと、ダンスやパフォーマンスをしていなきゃならないから、ナターシャちゃんには無理だよ。きのこの役なら、疲れた時には沿道に避難することもできるから」 「蘭子ママが、ナターシャのために、水玉きのこの帽子を作ってくれたヨ!」 「ナターシャちゃんは、エプロンドレスは これからも いつでも着る機会があるだろうけど、きのこのコスプレは、こういう時にしかできないよ。氷河に、可愛い写真を たくさん撮ってもらおうね」 「ウン! パパ、ナターシャのお写真 いっぱい撮ってネ!」 笑顔のナターシャを前面に押し出されると、氷河もいつまでも 子供のように駄々をこねてはいられない。 何より 氷河は、これから仕事に行かなければならなかったのだ。 瞬も今夜は夜勤。 星矢と紫龍が 氷河の家に来ているのは、大人がいなくなる家にナターシャを一人で置くわけにはいかないからだった(瞬が声を掛けたのは 星矢だけだったのだが、星矢一人で 子供の世話は無理だと言って、紫龍がついてきた)。 「ナターシャちゃん、いい子にしててね。星矢、紫龍、お願い」 「おっけー、まかしとけ!」 星矢にできるのは ナターシャの遊び相手だけで、実質的にナターシャの世話をするのは紫龍なのだが、さすがに その事実に言及するほど、紫龍は子供ではない。 そういう紫龍がいるから、氷河と瞬も安心して仕事に行くことができるのだった。 |