「バーテンダーと美容師、バンドマン。それが彼氏にしちゃいけない3Bって言われてる職業なのよ」 3Bにかけたわけではないだろうが、蘭子の手土産は3種類のバウムクーヘンだった。 チョコレートクリーム、抹茶クリーム、イチゴクリームのロールケーキではなく、チョコレート生地、抹茶生地、イチゴ風味生地のバウムクーヘン。 氷河の店の開店時刻に 氷河の自宅に来たのは、彼女が氷河に知られたくない用件を携えているからなのだろう。 こういうことは初めてではない。 過去の例に鑑みて、瞬は少々 嫌な予感を覚えていた。 「いっぺん、同時に食べ比べてみたかったのよー」 と蘭子が言うので、瞬は蘭子の手土産を お茶うけとして使わせてもらったのである。 夕食前なので、ナターシャの分のバウムクーヘンは蘭子の半分の厚さ。 とはいえ、夕食前に おやつが許されることは滅多にないことなので、蘭子持参の3Bバウムクーヘンに ナターシャは瞳を輝かせていた。 「彼氏にしちゃいけないとか、していいとか、そういうことは、職業ではなく 個々人の性格や価値観で判断すべきことだと思いますけど」 “バーテンダー”が彼氏に向いていないのではなく、“氷河”が彼氏に向いていないのだ。 そういうつもりで、瞬は3B説を否定したのだが、その意図が蘭子に通じたかどうか。 蘭子は、 「さすが 瞬ちゃんは、職業で一律に人間性を判断するようなことはしないのね」 と、瞬をおだてて(?)きた。 瞬の嫌な予感が、更に大きくなる。 「ええ。それは もちろん、瞬ちゃんの言う通りよ。でも、なにしろ、バーテンダーは 勤務時間が不規則で 深夜に及ぶことも多いでしょ。生活リズムが普通の会社員とは違う。収入も不安定、女性と接する機会も多い。結婚なんて、絶対しちゃ駄目っていうのが通説なのよ」 『それでも、アテナの聖闘士よりは ましでしょう』と答えるわけにもいかず、瞬は、 「そういうものかもしれませんね」 と、曖昧な相槌を打った。 蘭子が、瞬の相槌に相槌を返してくる。 「でも、そんなふうに、要注意職種として取り沙汰されるのは、悪名高き3Bが もてるからなのよ。客あしらい――特に女性客の扱いに慣れていて、所作はスマート。外見に気を遣う職業でもある。それで もてないはずがないでしょう?」 蘭子が にっこりと瞬に笑いかけてくるのは、悪名高き3Bが もてるからではなく、バウムクーヘンが美味しいからでもなく、今日 彼女が携えてきた用件が何であるかを瞬が察したことに、彼女が気付いたから。 それは、『アタシの頼みを聞いてくれるわね?』の にっこりだった。 察したくて察したのではない瞬が、少々 長めの溜め息を洩らす。 「またですか? これで何人目です」 「ええ、またなのよ。そろそろ10人目の大台に乗るかしら。それで、瞬ちゃんにお出ましいただこうと思って。あの女を ぱぱぱぱぱっと お店から追い払ってちょうだい」 氷河目当てに 店に通い詰めてくる幾人もの女性客を、報われぬ恋に深入りさせないため、氷河の快適な職場環境保全のためと 理由をつけて、瞬は追い払ってきた。 より正確に言うと、蘭子の策略にはまって、追い払わされてきた。 蘭子はこれが10人目と言うが、最初の3、4人に関しては、瞬は 自分が彼女たちを“追い払った”と意識してもいなかった。 当初、蘭子は瞬に『追い払って』と はっきり言わず、『氷河ちゃんのお仕事参観に来て』と言って、瞬が氷河の店に向かうように仕向けていたのだ。 『氷河ちゃんの職務態度が、最近 たるんでるから、活を入れに来て』だの、『店の内装を変えたから、忌憚のない感想を聞きたいわ』だのと、尤もらしい理由をつけて、蘭子は瞬を 氷河の店に呼び出す。 恋をして(しかけて)勘が鋭くなった女性たちは、氷河と瞬のやりとりや 瞬への氷河の接し方で 悟るところがあるらしく、自身の恋を諦める――諦めていたのだそうだった。 何か おかしいと感じた瞬が、蘭子を問い質すと、蘭子は隠す様子もなく、『瞬ちゃんは、虫除け』と答えてくれた。 氷河に寄ってくる虫を追い払う虫除け殺虫剤として 瞬を使っていたことを、蘭子は けろりとした顔で白状してくれたのだ。 そして、それ以後も あれこれ理由をつけては 瞬を虫除けとして利用し続けた。 氷河目当てに 店に通い詰めてくる女性客を 報われぬ恋に深入りさせないため、氷河の快適な職場環境保全のため、そして何より、蘭子が、蘭子の大切なお花を質の悪い虫に枯らされたくないから。 と、蘭子は言った。 多分、今回も そういうことなのだろう。 「蘭子さんが 氷河やシュラさんを 蘭子さんのお店に雇ってくださってるのは、二人目当ての女性客――とは限らないかもしれませんが、要するに 集客のためなんでしょう? お店の売上を上げるためだったのでは?」 それで期待通りに 集まってきた蝶やミツバチを追い払うのは 本末転倒ではないかと、瞬は蘭子に問うたことがあった。 「もちろん、そうよ。もちろん そうだけど、アタシは アタシの店に アタシが気に入らない客には来てほしくないわ。アタシがほしいのは、氷河ちゃんやシュラちゃん目当てに お店に来てくれて、二人に気に入られようとして 高いお酒をオーダーしてくれて、金払いもよくて、分をわきまえている客。目の保養をして、美味しい お酒を堪能して、満足して帰ってくれればいいの。本気で 氷河ちゃんをものにしようと企んで、色目を使ったり、口説いたりするような客は、ノーサンキューよ」 というのが、蘭子の答え。 蘭子は、今日も、ほぼ同じ主張を繰り返した。 「何度も瞬ちゃんに ご足労願うのは 本当に申し訳ないと思ってるんだけど――」 いかにも申し訳なさそうな顔と声で 蘭子は詫びてくるが、実は彼女は全く申し訳なく思ってなどいないのだ。 彼女は、ただ ひたすら面白がっているだけ。 彼女が 本当に申し訳なく思っているのなら、蘭子は 瞬を虫除けに使ったりしないだろう。 瞬を使わなくても 他にいくらでも、蘭子は、彼女にとって好ましくない客を追い払う術を持っている。 その力も有している。 彼女が その術と力を使おうとしないということは、つまり、そういうことなのだ。 瞬が全く乗り気でないのを見てとった蘭子が、微妙に話を変えてくる。 「瞬ちゃんにばっかり頼っていちゃいけないから、ナターシャちゃんを お店に連れていって、あの女の前で『パパー』って呼ばせて、虫を追い払うのもいいかなー と思ったんだけど……」 蘭子は本気で そんなことをしようとしたわけではないだろう。 蘭子が本気でそんなことを考えているはずはなかったが、万一の時のために、瞬は彼女に釘を刺した。 「氷河が、そんなことのためにナターシャちゃんを お店に連れていくことを許すはずがないですよ」 「ええ。そんなことのために、瞬ちゃんに時間を割かせることだって、氷河ちゃんには不本意だと思うわよ。それはそうでしょうけど、でも、自分に まとわりつく虫が、瞬ちゃんを見て 身の程を知って 引き下がる図を見るのは、氷河ちゃんにとっても気分のいいことなのに決まってる。氷河ちゃんは、瞬ちゃんみたいに素晴らしいパートナーがいることを、世界中に向けて自慢したいでしょうし」 蘭子が、ちらりと わざとらしい一瞥を投げてくる。 瞬の反応を窺うような蘭子の一瞥に、しかし、瞬は彼女の期待通りの反応を示してやることはできなかった。 「そんなことは ありませんよ。だいいち、僕は氷河の自慢の種になるほど大層なものじゃない」 謙遜でも卑屈でもなく、虚心に そう思うから、瞬はそう言った。 自分に“大層な”ところがあるとしたら、それは 氷河という男の人となりを 他の人間より理解し、余人とは異なる彼の言動に、他の誰よりも慣れている――ということだけなのだ(瞬は、そう思っていた)。 3Bバウムクーヘンの味見を終えたナターシャが、瞬の見解に異議を唱えてくる。 「マーマは、パパの ご自慢ダヨ! パパはいつも、世界でいちばん綺麗で優しくて強いのはマーマだって言っテル。マーマに会えたのが、パパのいちばんのラッキーで、マーマをナターシャのマーマにしたのが、パパのいちばんのオテガラだって。パパは いつもソウ言ってるヨ!」 「まあぁ、そうなのぉ? そうでしょうねぇ。アタシも そう思うわ。何たって、瞬ちゃんは、困ってる人を放っておけない優しい人だもの」 ナターシャという心強い味方を得た蘭子が、ここぞとばかりに畳みかけてくる。 ナターシャもまた、蘭子の賛同に力を得たようだった。 「ウン。ソレカラネ。ソレカラ、ナターシャは世界一可愛い女の子だッテ!」 「そうそう、その通り。氷河ちゃんは、いつも本当のことしか言わないわ」 蘭子の言葉に、ナターシャが嬉しそうな笑顔になる。 パパが嘘つきの悪者でなく、正直者の正義の味方であることは、子供にとって 何より誇らしく嬉しいことなのだ。 瞬も さすがに、パパに世界一可愛いと言われて喜んでいるナターシャに、『それは誇張』『親の欲目』などという無粋な解説を付す気にはなれなかった。 「蘭子ママ。ナターシャ、イチゴ味が いちばん好きダヨ」 「アタシは抹茶風味かなー。チョコ味は甘すぎるみたい」 そう言いながら、蘭子が甘すぎるチョコレート生地のバウムクーヘンの残りを一口で平らげる。 それから 彼女は、再び 瞬の方に向き直った。 「氷河ちゃんは、自分では 人付き合いが苦手だって言ってるけど、本当は、苦手なんじゃなくて、ただ面倒がってるだけなのよね。面倒だから、無視するだけ」 「氷河は、自分が好意を抱いている人のためにしか動かない人間ですから」 「そう。だから、不愉快な客でも、積極的に追い払おうとしない。無視することを選ぶ。でも、アタシは、無視できないくらい、あの女が気に食わないの。あんな女に、ウチの大切なバーテンダーを誘惑されてたまるもんですか!」 バウムクーヘンが甘すぎたのか、“あんな女”の気に食わない振舞いを思い出してしまったのか、蘭子は そのたくましい右腕で怒りの力こぶを作った。 「氷河は、人に誘惑されたりすることはないですよ」 「それは わかってるわ。氷河ちゃんには、瞬ちゃんがいるんだもの。今は ナターシャちゃんもいる。たとえ面倒臭がりでなかったとしても、氷河ちゃんが他に目移りすることなんかあるはずがない。でも、あの女が氷河ちゃんを誘惑できると思って、氷河ちゃんに色目を使ってることが、アタシは気に入らないのよ。アタシの店のバーテンダーが、女にだらしのない3Bの典型バーテンダーだって思われてることが、アタシの誇りを傷付けるわけ。アタシの繊細なオンナゴコロが傷付くのよ!」 「……」 笑うことは許されず、かといって他にどんな表情を作ればいいのか、咄嗟に思いつかない。 蘭子の繊細なオンナゴコロの前に、瞬の顔は 正しく引きつることになった。 そんな瞬とは対照的に、蘭子は自由かつ柔軟の極み。この世界に 彼女の言動を制限するものはない。 「ね、瞬ちゃん。アタシを助けると思って、力を貸してちょうだい。瞬ちゃんは、氷河ちゃんの世界一優しい瞬ちゃんでしょう?」 自由で柔軟な蘭子が首を傾けて、“超困っている気の毒なアタシ”を演出。 たくましく発達した僧帽筋に、これまた鍛えられた首が埋もれる その様は、あえて形容するなら“頼り甲斐がある”。 そもそも その“超困っている気の毒なアタシ”のポーズは、瞬より20センチほど高いところで演じられているのだ。 それは 到底、庇護欲を そそるようなものではなかった。 だが、そんな蘭子の隣りで、世界一優しいマーマが 困っている人を助けてあげないはずがないと信じ切っている目で、ナターシャが瞬を見詰めている。 ナターシャの清らかな瞳に追い詰められて、瞬は絶体絶命。 そして、結局 負けるしかなかった。 氷河の雇い主と 氷河の愛娘に、2方向から同時に攻撃を仕掛けられて、瞬が二人に勝てるわけがない。 瞬は嘆息し、肩から力を抜いたのである。 瞬が白旗を掲げる前に、蘭子は彼女の勝利を高らかに宣言した。 「瞬ちゃんが ウチのお店に 顔を出してくれてる間、ナターシャちゃんの世話はアタシが 責任をもって引き受けるわ。あの女を、ぐうの音も出ないほど へこましてやってちょうだい」 勝利の美酒に酔いしれる蘭子。 そんな蘭子に対して、敗者である瞬ができるのは、せいぜい 賠償金の減額を求めることくらいのものだった。 「へこますようなことはできませんけど――蘭子さんにとって不愉快でない お客様になってもらえるよう、働きかけてみます」 「ありがとう、瞬ちゃん。さすが、氷河ちゃんの世界一! じゃあ、明日、早速 お願い。アタシ、明日のこの時刻、ナターシャちゃんを引き取りに来るわね。あの女がお店に来るのは、決まって、月曜と木曜なの」 「あ……明日ですか?」 「ナターシャちゃん、明日の夜は、瞬ちゃんは とっても大切なお仕事をしに行くから、ナターシャちゃんはアタシとお好み焼きパーティしましょ! 特大のお好み焼きを、華麗に引っくり返してみせてあげる」 「ワーイ!」 蘭子は、自身の勝利を確定事項にするために、一人で どんどん話を進めていく。 瞬は、流れで(?)蘭子に無条件降伏するしかなくなった。 |