氷河は、蘭子から何も聞いていなかったらしい。
店内に入ってきた客が瞬と気付くと、氷河は驚いたように瞳を見開き、だが 嬉しそうに 視線でカウンター席に着くよう、瞬に促してきた。
開店から1時間足らず。
まだ宵の口だが、席は半分以上 埋まっている。

「ご注文は」
「シンデレラをちょうだい」
それがノンアルコールカクテルだからというより、遅くまで長居はできないと知らせるために、瞬はシンデレラをオーダーした。
同量のオレンジジュースとパイナップルジュース、レモンジュースをシェイクして作るショートカクテル。
瞬が何も言わなくても、氷河はレモンジュースの割合を減らし、酸味を弱めて作ってくれる。

そのグラスを瞬の前に置き、氷河は小声で、
「何かあったのか。ナターシャは」
と尋ねてきた。
「蘭子さんに誘拐されちゃった。蘭子さんが気に入らないお客様をどうにかしたら、身代金なしで返してくれるって」
「……」

氷河は、それで すべてを察したらしい。
彼は 目に見えないほど僅かに肩をすくめ、瞬でなければ気付かないほど微かに 眉根を寄せた。
「気に入らないなら無視すればいいのに、わざわざ様子を見に店にやってきて、不愉快になろうとするママの心理が俺には理解できん」
「蘭子さん曰く、大切なお花を(たち)の悪い虫に枯らされたくない――だそうだよ。いらしてるの?」
「おまえの左手4番目の席、黒のワンピース」

U字型のカウンター。
問題の女性客は、瞬が顔や体の向きを変えなくても、顔の見える位置にいた。
一瞬より短い時間で、その女性を観察する。
20代半ば。
その客は、女性であることを武器にして生きているような――大きく胸の開いたワンピースを身に着けていた。
確かに、蘭子の嫌いなタイプかもしれない。
しかし、化粧はナチュラル系。
髪も染めていない。
スカート丈は短いが、ミニというほどではない。
顔立ちは整っているが、決して派手ではない。
勤務時間が9時から5時の会社員ではなさそうだが、女性のみに務まる飲食業や接客業に就いている女性でもないようだった。

眉は勝気そうな線を描いている。
氷河に対して、積極的に出ているのなら、自信家なのは確かだろう。
他人に使われることを好まない、起業家 もしくは個人事業種タイプ。
だとしたら、職種は何だろう?
瞬が、その具体例の考察に取りかかろうとした時、問題の女性が 氷河にクレームをつけてきた。

「マスターは、どの客にも平等に、不愛想と美味しいお酒を提供するのをモットーにしているんじゃなかった?」
「……」
氷河が答えないのは、あえて彼女の言を否定する必要はないから。
氷河は 瞬に満面の笑みを提供したわけではなかった。
氷河の不愛想と寡黙を承知しているのか、彼女は氷河の答えを待たなかった。
「そちらは常連さん? じゃないわね。初めて見る顔。美人ね。でも、随分と お堅そう」
「……」

なかなかに遠慮のない女性である。
“初めて見る顔”は 事実の報告だが、“随分と お堅そう”は、一方的かつ少々偏った憶測である。
瞬も 彼女同様、勝手に彼女を観察し、人となりを推測するということをしていたが、それを言葉に出してしまうのはマナー違反だろう。
氷河に近しい人間と察して、彼女は瞬に探りを入れてきたようだった。
氷河は口をきくのも嫌そうで、実際に沈黙を維持し続けている。
瞬がいるのなら 自分が彼女の相手をしてやる必要はないと考えて、氷河は安心して“寡黙なバーテンダーの自分”を堅持しているのだ。
彼女に答えを返すのは、瞬の役目だった。

「僕は氷河の幼馴染みです。お酒は ほとんど飲めないので、あまり こちらの店に来ることはないんですが」
「あらあ。このお店を知っているのに、お酒を飲めないなんて、勿体ない」
彼女は、無粋な客を腐しているつもりなのかもしれなかったが、それは氷河の作る酒への賛辞。
瞬は 彼女に好意を抱き、口許に微笑を刻んだのである。
尤も、瞬の その微笑は、すぐに、
「マスターの幼馴染みなのね。女性? 男性?」
という、超直球の質問のせいで、苦笑に変わってしまったが。
その判断に迷う人間は多いが、大抵の人間は 確かめることを遠慮する。
ここまで単刀直入に訊いてくる人間は滅多にいない――皆無ではないが、少ない。

「男です」
「男性なの! 女性だって言われても 違和感を覚えると思うけど、男性だって言われても、にわかには信じ難いわね。でも、それなら、マスターの好みのタイプを知ってる?」
なぜ ここで『でも、それなら』という接続詞が用いられるのかが、瞬には今ひとつ得心できなかったのだが、それは さておき、彼女は、どこまでも遠慮がない。
相手に時間を与えず、自分の言いたいことを言い、自分の知りたいことだけを問う。
頭の回転が速いのか、落ち着きがないのか、せっかちなのか、あるいは そのすべてなのか。
自分のペースで押し通そうとすることをやめれば、人とのやりとりが もっとスムーズにいくのに――と、瞬は胸中で思った。

「氷河の好みのタイプ……というのは、女性のですか? 残念ながら、僕は そういうことは知らないんです」
「そんなことは知らない……って、じゃあ、マスターがこれまでに付き合った子は、どんな子が多かった? スレンダー系、グラマー系、アダルト系、清純系、良妻賢母系、キャリアウーマン系。マスターは当然、相当 もてた――もてるんでしょう?」
これほど物怖じしない人間が、目の前にいる氷河当人に直接 尋ねないのは、既に その質問を氷河にぶつけ、答えが得られなかった――ということなのだろう。
氷河は 徹底してノーコメントを貫いたに違いなかった。
たった今も 氷河は、自分の女性の好みが俎上に上がっているというのに、無表情と沈黙を守っている。

「氷河は、軽々しく女性と付き合うようなことはしないんです」
「あなたの前では、そういう振りをしているだけなんじゃないの? バーテンダーなんて、バーテンダーってだけで、女は入れ食いよ。まして、この見た目――」
「氷河は違いますよ」
「陰で遊んでるから、表向きは真面目な振りをしてるのよ」
「氷河は、そんな面倒なことはしません」
「それは どうだか。同性に妬まれないため、女を油断させるため、お堅い仕事に就いてる友人と 付き合い続けるため、もてない振りをしてるだけに決まってる」
「……」

決めつけが甚だしい。
彼女は、誰に対しても こういう接し方をするのだろうか。
対峙する相手に有無を言わせず、自分のペースを断固として崩さない。
彼女のペースに巻き込まれないために、瞬は、彼女ではなく氷河に話を振った。
「そうなの?」
瞬に尋ねられたのでなかったら、氷河は、客に何を邪推されようが、どんな決めつけをされようが、無視していただろう。
確認を入れてきたのが瞬だったから、氷河は答えた――どちらかというと喜んで 答えを返してきたのだ。

「俺の好みのタイプなら、俺は よく知っているぞ。思い遣りの心を持っていて、その心を行動にすることができる人。優しくて、強くて、他人の言葉や社会通念、いかなる権威にも屈することのない、確固たる意思と理想を持ち、自分の理想や夢の実現のために努力を惜しまない。もちろん、美しい心に ふさわしく、容姿も美しい」
遠慮を知らない女性客に ちらりと皮肉げな一瞥をくれてから、氷河が瞬を見詰める。
『俺が誰のことを言っているのか、わかっているだろうな?』と 視線で問うてくる氷河は、いつも通りに無表情だが、機嫌はいい。
自分の好みのタイプを 瞬の前で語る機会を与えてくれた無遠慮な客に、氷河は感謝してさえいる。
――ということが、瞬には わかった。

とはいえ、まさか ここで喜ぶわけにはいかない。
実際のところ、瞬は、氷河の その言葉も 熱っぽい視線も、嬉しくはなかったのだ。
氷河は、彼の恋人を買いかぶりすぎている。
「そんな非の打ちどころのない人に、僕は会ったことはないけど」
氷河の買いかぶりを諫めるために、瞬が告げた その言葉。
その言葉を聞いた途端に、なぜか 氷河ではなく 無遠慮な客がむっとする。
それは 瞬には 完全に想定外の反応で、自分は何か 彼女の気に障るようなことを言ってしまったのかと、瞬は慌て戸惑ったのである。

「僕、何か――」
瞬が続けようとした『失礼なことを言ってしまいましたか?』を、
「きゃー、瞬せんせ。ラッキー! 瞬せんせに会えるなんて!」
という、やたらとハイテンションな声が遮る。
店のドアを通って その場に登場したのは、瞬とも顔見知りの、このバーの常連。
無遠慮と 賑やかさで 人後に落ちることはないが、分をわきまえているので、“静かな大人のバー”を目指している氷河にすら、その無遠慮と騒がしさを容認されている 稀有な女性だった。

「服田さん。ご無沙汰してます」
「ほんとに ご無沙汰よぉ。相変わらず、憎らしいほど綺麗ね」
満面の笑みで、瞬の隣りの席に着いた服田女史は、カウンターの中で渋面を作っている氷河に、
「ごめんなさい。静かにしまーす」
と、大きな声で謝罪した。
ミント・ジュレップをオーダーし、それからカウンターテーブルに肩肘をつき、もう一人の無遠慮な客に唇を読まれぬよう、瞬に小声で囁いてくる。

「そろそろ 蘭子ママが 瞬せんせを呼んでくる頃だろうと思ってたんだけど、大当たり。彼女、露骨に氷河の誘惑に かかってたから、蘭子ママ、かなり気が立ってて――首尾はどう?」
「あまり よくないようです」
「でしょうね。彼女は、自分のことばっかり見て、人の心を読めないタイプだもの」
「そうなんですか」
服田女史に捕まってしまっては、当分 解放してもらえないだろう。
もう一人の無遠慮な客のことは気になったが、瞬は 今夜は、彼女との更なる接触は諦めざるを得なかった。






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