それから しばらく、日常の様々な出来事はあったが、比較的 平穏な日が過ぎた。 彼女が再び瞬の前に登場したのは、それから2週間後。 場所は、氷河の店ではなく、光が丘公園の芝生広場だった。 「パパ、マーマ。ナターシャ、テントウムシごっこを発明したヨ!」 その日も、ナターシャは元気いっぱい。 彼女の世界は、常に 新たな発見と刺激に満ちているのだ。 「てんとう虫ごっこ?」 それは初めて聞く遊戯である。 瞬が首をかしげると、新しい技を披露できることが楽しみでならないらしいナターシャは、頬を紅潮させて 大きく頷いてきた。 「パパ、マーマ、そこに並んで立ってて」 氷河と瞬の立ち位置を調整すると、ナターシャは 二人から5メートルほど離れ、準備ОK。 「ヨーイ、ドン!」 自分でスタートの号令をかけ、ナターシャは氷河に向かって勢いよく駆け出した。 たたたたたっと 走ってきて、氷河に取りつき、まるで登り棒を登るように 器用に よじ登り、てっぺんに到達すると、ぱっと瞬の方に飛び移る。 瞬はナターシャを両手で抱きとめた。 「ヤッター!」 ナターシャの新しい発明は 大成功を収めたらしく、瞬に抱きかかえられたまま、ナターシャは勝利の凱歌を上げた。 「びっくりした。これが てんとう虫ごっこなの?」 ナターシャの身軽、手足の運動能力、筋力は、この年齢の女の子としては申し分ない。 だが、どこが てんとう虫なのかがわからず、瞬が尋ねると、ナターシャは得意げに説明を始めた。 「ソーダヨ。ナターシャが発明したノ。テントウムシって、お花や草にとまると、上の方に登っていって、それより上に行けない てっぺんまで行くと、ぱっと飛ぶんだよ」 「それで てんとう虫なんだ」 運動能力と筋力だけでなく観察眼も、ナターシャは 標準より秀でている。 瞬は嬉しくなって、つい口許がほころんだ。 「てんとう虫っていうのは、お陽様の虫っていう意味だからね。お陽様のことを、お天道様っていうんだ。てんとう虫は太陽に向かって飛ぶから、てんとう虫って言うんだよ。ナターシャちゃん、よく気付いたね」 「テントウムシって、お陽様の虫っていう意味なんダー」 マーマに褒められ、新しい知識も得て、ナターシャは超ご機嫌。 パパは いつも通り 無表情だが――無表情に見えるが――パパがナターシャの発明を ナターシャ以上に得意に思っていることが、ナターシャには わかっている。 「お陽様に向かって飛ぶのを、難しい言葉で、走光性っていうの。光に走る性質。氷河に向かって走るナターシャちゃんも、てんとう虫と同じだね」 「ソーコーセー? パパもマーマに向かって走るヨ。パパもテントウムシだヨ」 氷河がナターシャを愛するのは、その観察眼、洞察力を、ナターシャが虫や花だけでなく 人の心に対しても発揮できるからである。 ナターシャは、無表情で不器用な氷河の心を 的確に読み取り、しかも 読み取った情報を瞬に伝えることまでしてくれるのだ。 これほど よく出来た娘は、他にいない。 望んで得られるものではない。 「瞬は、俺の光だからな」 氷河が、よく出来た娘を 瞬の手から引き取り、瞬の瞳を見詰める。 家族連れの多い、日曜の公園。 人目のあるところで 真面目に(?)妖しい雰囲気を かもし出した氷河と、その隣りで にこにこ笑顔のナターシャ。 ナターシャがいなければ、『なに、真顔で恥ずかしいこと言ってるの』で済ませるところなのだが、ナターシャがいたのでは それはできない。 とはいえ、『嬉しい』と答えるのも 気恥ずかしく癪。 瞬は この父娘に どういう対応をすべきなのかを、大いに迷ってしまったのである。 幸か不幸か、瞬は その迷いに 答えを出さずに済んだ。 突然 光が丘公園の芝生広場に響き渡った、 「なななななな何なのよ、これ! これって、いったい どういうこと !? パパって何! パパはともかく、マーマって……マーマって何なのよっ!」 という、無遠慮な(むしろ、常軌を逸した)女性の 大音声のせいで、瞬は優雅に迷ってなどいられなくなってしまったのだ。 「……あの……」 氷河は人目を気にしないだけだが、彼女は人目のみならず、人の耳も気にしていないらしい。 ここがバーなら、即座に退店させられるような大声。 服装は、休日の公園より 深更のバーにふさわしい それ。 運動や遊戯より 改まった外出向きのハイヒール。 どこかに吹き飛んでしまった迷いの代わりに、混乱が瞬を捉える。 今の瞬に わかるのは、その服装からして 彼女が自宅近所の公園に散歩に来たのではない――ということだけだった。 「なぜ、ここが」 瞬の代わりに、氷河が尋ねてくれる。 なぜ ここに彼女がいるのか。 なぜ、ここがわかったのか。 押上の店と 練馬区光が丘公園を、彼女は どうやって結びつけたのか。 あとをつけられるような間抜けな真似をした覚えはなかったし、もちろん 口を滑らせて、個人情報を洩らした記憶もない。 氷河は、まず その点から確認することにしたらしい。 それは重要な問題である。 氷河には(瞬にも)重要な その問題は、だが、彼女には 全く重要な問題ではなかったようだった。 「そんなこと、どーだっていいでしょう! そんなことより、これって どういうことよ !? 私のこと、弄んだだけだったのっ !? 」 「……瞬。この女は何を言っているんだ?」 そんなことを訊かれても、氷河に わからないことが、彼女とは バーで二言三言 言葉を交わしただけの瞬に わかるわけがない。 「僕にも よくわからないけど……」 氷河は、何事に対しても、常に真剣で本気。 真剣かつ本気になれないことには無関心を貫く。 氷河は、何事かを弄ぶようなことができる男ではない。 それが人間なら 尚更である。 人を弄ぶなどという器用なことは、氷河にはできないのだ。 「だって、私のこと、思い遣りがあって、強くて優しくて、夢のために努力を続ける、理想の人だって言ったでしょう!」 「言ってない」 いろいろなことが“わからない”が、それだけは確信を持って断言できる。 そういう声と態度で、氷河は断言した。 パパとマーマの困惑を察知し、パパとマーマを助けてやらなければならないと思ったのか、あるいは、威勢のいい闖入者の誤りを正してやらなければならないと考えたのか、大人たちの間に ナターシャが 元気に割り込んできた。 「パパの理想のタイプはマーマダヨ! パパはいつも言ってル。マーマは世界一綺麗で優しくて強くて清らかで、世界の平和を守るために いつもイッショーケンメーなんダヨ!」 「はあ?」 「それで、世界一可愛い女の子はナターシャだっテ!」 そのことも ちゃんと伝えておかなければならないというナターシャの気遣い(?)を、彼女は無視した。 「なに言ってるのよ! 誰が世界一? 世界の平和? ほんとにほんとに、なに寝ぼけたこと言ってんのよ!」 「エ……」 『ナターシャちゃんのパパの言う通り』という答えを期待していたナターシャは、初対面のお姉さんの期待外れの わめき声に顔を くしゃっと しかめた。 いたいけな子供の自信を打ち砕くことと、無遠慮に大人の自信を打ち砕くこと。 その二つの行為が罪だったとして、二つの罪の重さに違いはあるものだろうか。 どちらかが軽く、どちらかが思いということはあるだろうか。 公平な目で見れば、二つの罪の重さに違いはないだろう。 その二つの罪は、行為の対象が違うだけで、行為それ自体は全く同じものなのだから。 にもかかわらず、同じ二つの罪への罰の重さが異なるのが人間社会というものである。 もっとも、今 この件に関しては、ナターシャを傷付けられて怒髪天を衝いた氷河が 鉄槌を下すまでもなく、無遠慮な彼女は、彼女の前に出現した“事実”という大きすぎる衝撃に打ちのめされつつあったのだが。 なにしろ、彼女が篭絡しようとしていた相手に子供がいて、その子供が 男子であるところの瞬をマーマと呼び、更には マーマこそがパパの理想の人だと 自信満々で言い放ってくれたのだ。 無邪気であり、利害を考慮せず、無責任でもあるがゆえに、幼い子供の言葉には信憑性がある。 2週間前、氷河の店で、瞬が告げた言葉。 『そんな非の打ちどころのない人、僕は会ったことはないけど』 その言葉の“そんな非の打ちどころのない人”が誰のことだったのかが、やっと彼女にも わかったようだった。 自身の勘違い(うぬぼれ)を自覚して 一気に頭に血が上ったらしく、彼女の顔が真っ赤になる。 それは――そこまでは、自身の うぬぼれを自覚した人間の反応としては、いたって一般的かつ標準的なものだったろう。 が、そのあとの言動が、彼女は 一般的でも標準的でもなかった。 彼女は、 「じゃあ、私の夢はどうなるのっ! 私の店の権利は!」 と、氷河を面詰してきたのだ。 もちろん 氷河には、なぜ自分が責められるのかが わからない。 彼女が何を責めているのかも わからない。 氷河が何もわかっていないことは、しかし、彼女には どうでもいいことのようだった。 「最初から、マスターを落とすのなんて無理なことだったんじゃないのっ! あのカママッチョは、このこと 知ってたのっ !? 知ってたんなら、ただじゃおかないから!」 彼女の赤面の原因は、羞恥ではなく怒り――それも、どうやら蘭子に対する怒り――であるらしい。 「あの……」 瞬は彼女に事情説明を求めようとしたのである。 が、自分の怒りに夢中の彼女は、もはや瞬の姿も氷河の姿も その目に映していなかった――というより、映っていなかった。 彼女は 顔を真っ赤にしたまま、 「あの カママッチョめーっ!」 と毒づきながら、乱暴な足取りで駅の方向に どかどかと歩き出した。 瞬は、ハイヒールで どかどか歩く女性を見るという、実に稀有な体験を体験することになったのである。 その場に残された氷河と瞬は、ただひたすら唖然呆然。 ナターシャに、 「マーマ、マーマ。かままっちょって、ナニー?」 と尋ねられなかったら、瞬は翌日の夜明けまで、その場に呆けて突っ立ったままでいたかもしれなかった。 「え? かまま――あ、えーと、ウマオイの鳴き声のことかな。ナターシャちゃんは、ウマオイって知ってる?」 「ナターシャ、ウマオイ、知ってるヨ。デモ、ウマオイは、かままっちょじゃないヨ。ウマオイは、すいっちょんダヨ!」 「ナターシャちゃん、よく知ってるね」 「マツムシが ちんちろりんで、クツワムシが、がちゃがちゃがちゃがちゃダヨ!」 「ほんとに すごい。ナターシャちゃんは虫博士だね」 「ウフフ」 “世界一可愛い女の子”を否定されたナターシャの傷心は、瞬に与えられた“虫博士”の称号で帳消しになったらしい。 “虫のこえ”の歌を2番まで歌ってから、 「ニンゲンの鳴き声が いちばん難しいヨ!」 と告げるナターシャに 哲学者の才能の片鱗を見て、氷河も 無遠慮な彼女の支離滅裂振りを さっさと忘れてしまったようだった。 氷河には、興味のない人間が引き起こした大騒ぎより、娘の才能の方が はるかに大事なことなのだ。 得意で幸せな父娘の様子を見やりながら、なぜか瞬だけが 激しい疲労感に襲われていた。 |