私が目覚めたのは、アジア随一、世界でも屈指の財力と影響力を持つグラード財団の総帥である 城戸沙織という女性の私邸だった。 天井の高い、瀟洒な邸宅。 部屋や寝台を 不自然に広いと感じたのは、そこが病室ではなかったから。 私は、病人でも怪我人でもなく、正しく眠っていただけだったらしい。 私の心が――それとも、魂が? ――宿った身体の元の持ち主は、瞬という名の十代半ばの少年だった。 少女のように可愛らしい顔立ちの。 私などが、たった12日間だけとはいえ、借用するのは分不相応に思えるほど、何もかもが綺麗な人間。 私は、かつての私がどんな人間だったのを知らないが、瞬がどんな少年だったのかも知らない。 無理に、“瞬”の振りをしようとせず、正直に記憶を失っていることを告白したのは、良い方に転んだ。 瞬ならばしないようなことをしても、記憶を失っているのなら 疑われることもないし、星矢さんや紫龍さんに 瞬がどんな少年であったのかを教えてもらうこともできた。 私が本当に知りたいのは、“瞬”という少年のことではなく、私自身のことだったのだが、それは 星矢さんたちも知らないのだから、こればかりは どうしようもない。 星矢さんたちは 肉親同士ではないらしい。 皆、親のない孤児で、瞬の“仲間”だったと言った。 道理で、それぞれに個性的で、誰も似ていない。 ただ 一輝さんだけは 瞬の実兄なのだとか。 実の兄弟だというのに、彼と瞬は全く似ていなかったが。 彼等は瞬を とても愛していたようで、記憶を失っているとはいえ、瞬が生き返ったことを 非常に喜んでいた。 そんな彼等に、私は 到底、私は瞬ではないとは言えなかった。 言ったところで信じてはもらえなかったろう。 だが、私が彼等に その事実を言えなかったのは、もしかしたら、言ったところで彼等に信じてもらうことはできないだろうと思うからではなく、彼等の喜びに水を差したくないと思うからでもなかったかもしれない。 言って、万一 信じてもらうことができ、『では、瞬の魂はどこに行ったのか』と問われた時、私は 彼等に返す答えを持っていないのだ。 その事態に相対することを、私は恐れたのだ。おそらく。 例えなのか、事実なのか――瞬は 世界を救うために 自分の命を犠牲にしかけたのだと、星矢さんは私に言った。 「俺たちが正義の味方だって言ったら、おまえ、信じるか?」 ひどく切なそうな目をした星矢さんに そう問われた私は――もちろん 彼の言葉は信じ難かったが、不思議に 信じる気持ちになり、実際に 信じてしまった。 そして、もしかしたら、私のせいで 瞬は死に、私のせいで 瞬の魂は消滅したのではないだろうか――と考えることになった。 私の罪とは、そういう罪で、だから私の意思は 瞬の身体に宿ることになったのではないか――と。 それなら、得心がいく。 これは、人間ならざる力を持った者による、私への復讐なのだと考えれば。 瞬の身体で この世界に降り立ち、瞬がどれだけ仲間たちに愛されていたのかを知り、瞬がどれだけ 善良で清らかな人間だったのかを知り、己れの罪の深さを自覚させること。後悔させること。 それが あの声の主の目的だったのだ。おそらく。 「おまえが生死の境をさまよってる間、死も覚悟しろって言われた時、俺たちは みんな、なんつーか、腹が立って、そんで 打ちのめされたんだ。そんで、これまで考えたこともなかったことを考えた。おまえを犠牲にして存続する世界に、いったい どんな意味があるんだろうって。おまえは 優しくて、いつだって 自分の益なんか考えず、自分以外の人間の幸福だけを願って、戦いたくもない戦いを戦ってきた奴だ。そんな おまえが命を失って、代わりに生き延びるのは ろくでなしの人間だけ。そういうのって、やりきれなくてさ……。ほんと、よかったよ。おまえが生き返ってきてくれて。おまえが生きている世界なら、あってもいいって思えるから。これからも守っていこうって思えるから」 しんみりした声の中に 喜びの感情を にじませて、瞬の生で希望を持てたと語ってくれる星矢さんは、素直で、まっすぐな心を持っていて、強くて優しい。 星矢さんに こんなふうに言ってもらえる瞬は善良な人間だったのだろう。 そんな瞬の命を奪ったのが、もし私だったとしたら……私が ここにいるのは許されるべきではないことだ。 許されるべきではないのに――その可能性は かなり高い。 瞬は 世界を救うために 自分の命を犠牲にしかけたのだと、星矢さんは言っていた。 その瞬の命を奪ったのかもしれない私は、では、世界を滅ぼそうとしたのか? 瞬の現在の魂の所在を思うと、本来の私はどんな人間だったのかということを考えることは恐ろしい。 だが、考えずにいることもできない。 本来の私は、男性なのか、女性なのか。 若かったのか、成人していたのか、あるいは老人だったのか。 私の犯した罪とはどんな罪なのか。 地獄に墜ちることも許されないほどの大罪。 それは何だ。 『人間の最大の罪は不機嫌である』と言ったのは ゲーテだったか。 自分自身に関する記憶がないのに、ゲーテの言葉を憶えているのも おかしなことだが、実際 私はドイツの文豪の名と言葉を知っている。 私は、言語や日常生活の あれこれは憶えている――意味記憶と 手続き記憶は保持していて、エピソード記憶の一部だけが失われた状態にあるようだ。 私に贖罪の方法を探す12日間のトライアルを指示した あの声の主は、そういう記憶の消し方をしたのだろう。 私は、ゲーテより古い時代に著わされたダンテの『神曲』の内容も憶えていた(ただし、いつ、どういう状況で その知識を得たのかは憶えていない)。 ダンテの『神曲』で、地獄の最下層にいたのは、裏切者たちだった。 肉親や仲間を裏切った者、祖国を裏切った者、神を裏切った者。 しかし、彼等は、地獄に墜ちることができていた。 私の犯した罪は、それより更に重いということか。 私に思いつく、裏切りより重い罪は、人の命を奪うことくらいだ。 とはいえ、普通の殺人者たち(そんなものがいるのかどうかという問題は さておいて)も 地獄に墜ちることはできているはず。 むしろ、地獄は そういう者たちのためにある場所だろう。 私は、人間の命を一つ二つ奪ったのではなく、大量殺戮でもしたのか? 世界そのものを滅ぼそうとしたのか? 神を殺そうとしたのか? 私の犯した罪が、そのいずれかであったとしても、それ以外の何かであったとしても――星矢さんにとって 世界が存続する意義に匹敵するほど大切な仲間の魂を消し去ったのは、この私で間違いないだろう。 だというのに、星矢さんたちは 私を気遣ってくれる。 皮肉なことに、私が瞬の姿を持っているから、彼等は私を愛してくれるのだ。 私は、彼等の優しさが つらい。 つらくて苦しくてならないのに、本当のことを彼等に打ち明けることもできず――私は どうすればいいのか煩悶し続け、結局 何を為すこともできないまま3日が過ぎた。 |