マーマが何を心配していたのかを ナターシャが知ることになったのは、その2日後。
その日は瞬も休日だったので、ナターシャはパパとマーマと三人で光が丘公園に出向いたのだが、平日の2割増しで公園が混み合う日曜日だというのに、ちびっこ広場から 子供たちの歓声が全く聞こえてこない。
妙な不安を感じつつ、ちびっこ広場に足を踏み入れたナターシャは、そこで2日前と ほとんど同じ光景を見ることになってしまったのである。

広場の遊具で遊んでいる子供は 一人もいない。
広場の端では、数組の親子が、柄の悪い男たちに選挙されている広場を 恨めしげに見詰めているのも 2日前と同じ。
2日前と違うのは、広場の そこここに居座っている異質で柄の悪い男たちの数だけだった。

「あいつらだ。前より数が増えているな。6人が――12人。ちょうど2倍か。まるで ゾウリムシの細胞分裂だな。やはり単細胞生物だったか」
もしゾウリムシが ここにいて、彼等が口をきけたなら、『あんなのと一緒にするな』と、クレームをつけてきたに違いない。
全く緊張感なく、ゾウリムシの名誉を棄損する氷河を、瞬は軽く睨みつけた。

「だから言ったでしょう」
「すまん」
彼等の目的は、奪い取られた陣地を取り戻すことではなく、氷河への報復だったらしい。
広場の入り口に氷河とナターシャの姿を認めると、2倍に増殖した異質な男たちは 互いに目配せをし合い、ヤンキー座りをやめて、その場に立ちあがった。

「氷河は手を出さないで」
『手を出さないで』というのは、『叩きのめすこと以外の解決策を持っていないなら、手出しも口出しも無用』という意味である。
叩きのめすこと以外の解決策を持っていない氷河は、瞬の指示に従うしかなかった。
氷河とナターシャを広場の入り口に残し、瞬が一人で広場の中に入っていく。
異質な男たちは、氷河ではなく瞬がやってきたことに、少なからず驚いたようだった。
12人の中のリーダー格らしい男が、妙なものを見るような目で、瞬を見おろしてくる。

「色男の女は 超美人ってか。羨ましい限りだ」
女性と見誤られることには慣れているので、いちいち訂正を求める気にはならないが、彼が口にした“色男”という言葉に、瞬は ある種の感動を覚えることになった。
“色男”は、本来は歌舞伎用語だが、最近は 梨園の外では ついぞ使われなくなった言葉である。
“イケメン”よりは情緒があると、そんなことを考えながら、瞬は、リーダー格の男に 自分の用向きを伝えたのである。
かなり、婉曲的に。

「ここは子供たちの遊び場です。ご存じでしょうか。ちびっこ広場というんです」
婉曲が過ぎたのか、リーダー格の男からは、
「俺たちが恐くねーのかよ」
という、的外れな答えが返ってきた。
氷河と違って 瞬は、そんなことには苛立たない。
「氷河の――彼の乱暴のせいで お怪我をした人がいるのではないかと心配していたんです。大丈夫でしたか」
「治療費と慰謝料でも払ってくれんのか?」
「お怪我をしたのでしたら、僕が責任をもって治療します」
「あんた、看護師か何かなのか?」
「美人の看護婦さん。お注射、打ってほしいなー」
「ばーか。注射 打ってもらってどーすんだよ! ぶっとい お注射 打ってやるのは、こっちの方だろ!」
脇から 会話に割り込んでくる品のない野次が、今の瞬には有難かった。
おかげで、瞬は、『看護師ではなく医師です』と訂正を入れて、異質な男たちに個人情報を開示せずに済んだ。

「お元気そうでよかった。氷河は ちゃんと手加減したんですね」
心から安堵して、瞬は そう言ったのだが、彼等は それを嘲弄と感じたらしい。
繊細な感受性など 全く持ち合わせていないように見えるのに、彼等は 他者からの侮蔑には敏感なようだった。
品のない笑いを貼りつけていた男たちの顔が、一斉に引きつる。
「手加減だとっ」
いきり立って 瞬に詰め寄ろうとした数人は、おそらく2日前に 氷河に手加減してもらった男たちなのだろう
しかし、リーダー格の男は、彼等を押しとどめた。
そして、何かを探るような視線を、瞬に向けてくる。

「あんた、何で 俺たちを恐がってないんだ? どっかに通報済みってことか? だとしたら、残念だったな。サツが駆けつけてくるのを大人しく待ってるほど、俺たちは礼儀正しくない。俺たちに痛い目に会わされるわけがないって思ってんなら、そりゃ見通しが甘いってもんだぞ」
彼の探るような視線を微笑で受けとめて、瞬が、僅かに首を右に傾ける。
「いいえ。僕は、通報なんかしてませんよ。僕も、ここは穏便に済ませたいですから。ただ、ここは子供たちの遊び場なので、成人した方々は 子供たちに遊具を譲ってほしいと お願いしているんです」
頭を下げることはできなかったが、極力 穏やかな口調で、瞬は彼等に“お願い”した。

そもそも 子供の遊び場を占拠したところで、彼等には どんな益もないのだ。
ちびっこ広場には、みかじめ料を収めさせられるような飲食店の類は1軒も存在しない。
彼等は、たまたま氷河にメンツを潰され、その立て直しを図っているにすぎないのである。
彼等のメンツを潰した人間の身内が下手(したて)に出ることで 面目が立ったと考え、この場から立ち去ってくれれば、瞬としても、それ以上のことをするつもりはなかった。
それは、アテナの聖闘士の仕事ではない。

彼等は、一般人に恐れ怯えられることに慣れているのだろう。
全く そういう気配を見せない瞬に、リーダー格の男は戸惑っているようだった。
彼が、脅すような目付きで、
「あんた、ほんとに美人だな。あんたが俺たちと 他の場所で 遊んでくれるなら、広場はガキ共に譲って、俺たちは ここから退散してやってもいいぞ」
そんなことを言い出したのも、その戸惑いを隠すためだったのかもしれない。
瞬が、左右に首を振る。

「そうできたらいいんですが、僕は娘を見ていなければならないので」
「ガキは あの金髪野郎に任せればいい」
「その金髪野郎が、とっても焼きもち焼きで、僕が あなた方についていこうとしたりしたら、彼は今度は手加減をしないと思うんです。皆さん、彼に倒された時、自分がどうして倒されたのか よくわからなかったでしょう? 気がついたら、倒れていた。違いますか」
「……」
異質な男たち12人中6人が、ほぼ同時に顔を歪ませ、他の6人が そんな仲間たち(?)を怪訝そうに見やる。

ともかく、瞬の言を否定する者は、その場に一人もいなかった。
当然である。
アテナの聖闘士から見れば、彼等も立派な(?)一般人。
思い切り手加減していたとはいえ、一般人に、聖闘士の拳を見切れたわけがない。

「次は、自分が なぜ死ぬのか わからないまま、命を落とすことになるかもしれません」
「そ……そんなことしたら、人殺しじゃないか!」
と、瞬を非難してきたのは、滑り台の脇に立っていた、見るからに下っ端の男。
まるで担任教師に クラスメイトのいたずらを告げ口する小学生のような彼の口振りが、瞬には、妙に可愛らしく感じられた。
「ええ、そうなんです。でも、彼は、娘のためなら何でもする父親で……娘の遊び場の広場の占拠を繰り返されるくらいなら、面倒事を根本から消し去ろうと考える。僕も、彼の短絡的な振舞いには 手を焼いているんです」
「……」

瞬が微笑を浮かべているのが、かえって不気味だったのか――特に、2日前に氷河の短絡的な振舞いで 痛い目を見た6人は、瞬の脅し――もとい、“お願い”――に、すっかり怖気(おじけ)けているようだった。
彼等の怯えは、だが、悪い方に作用した――非力な鼠を、猫に噛みつく窮鼠に変えてしまった――らしい。
彼等の今日の ちびっこ広場占拠の目的は、潰されたメンツの回復。
彼等は、異質な人間の立場上、怯えて ここから退散するわけにはいかなかったのだ。

「この場所を子供たちに返してください。僕に、乱暴を働かせないで」
「乱暴? その細腕で、何ができるっていうんだ」
どうあっても 自分たちの目的を果たすつもりでいりらしいリーダー格の男が、瞬に向かって すごんでくる。
初心を忘れない彼の頑迷に嘆息し、瞬は“少しだけ”手荒なことをする覚悟を決めた。
もちろん、ほんの“少しだけ”、である。

「そうですね。たとえば、あなた方が呼吸できなくなるようにするとか」
「なにっ」
声を荒げた時には、彼は 息ができなくなっていた。
凄まじいスピードの小さな気流が、異質な男たちの鼻と口をふさぐ。
息ができなくなった男たちの頬は 真っ赤になり、それは 1分後には 真っ青に変わっていた。
死なせるわけにはいかないので、適当なところで気流を止める。
「これで、ちょうど2分。大丈夫ですか」
男たちは、我が身に何が起きたのかを理解できずに――理解しようと考える余裕も、彼等にはなかっただろうが――そこここで、ぜいぜい、げほげほと、効率の悪い酸素吸入作業を始めた。
彼等からは 当然、『大丈夫』という答えも『大丈夫じゃない』という答えも返ってこない。
彼等の非礼を責める瞬ではなかったが。

「リラックスした状態ならともかく、そんなに興奮した状態では、1分間の息止めも きついでしょう? 次、5分くらい挑戦してみます?」
医師としても、アテナの聖闘士としても、人を苦しめることはしたくない。
『これ以上 メンツにこだわって、意地を張らないで』と 心中で祈りつつ、瞬は彼等を更に脅した。
幸い、『やれるものなら やってみろ』と応じない程度の分別は、彼等にもあったらしい。
沈黙している彼等に、瞬は にこやかに微笑んだ。
「僕が 皆さんに指一本 触れていないことは、この場にいる複数の方々が証言してくださるでしょう。この広場には 論より証拠の防犯カメラも複数 設置されていますしね。遊具で遊びたい皆さんの お気持ちはわかりますけど、ここは 子供たちに譲ってあげてください」

不気味なものを見るように、瞬の上に視線を据えたまま、男たちが 後ずさっていく。
「言うまでもないことだと思いますが、三度目はありません。ここで僕たちがまた あなた方に会うことがあったなら、あなた方には お気の毒なことになるかもしれません」
恐怖が 彼等にメンツや意地を忘れさせ、代わりに、理性の活動を促すことになったらしい。
異質な男たちは、やっと聞き分けてくれたようだった。
威勢より理性が勝ち出した彼等の様子が、瞬に 安堵の笑みを浮かべさせる。

「今度 こちらにいらっしゃる時は、お子さんと一緒に、パパのお顔でいらしてくださいね。それなら歓迎しますので」
言いながら、今度は、彼等の足を動けなくする。
「はい。では、これから 子供たちが この広場で安心して遊べるよう、今 皆さんが立ってらっしゃる場所で、『ごめんなさい。もう遊具の一人占めはしません』と、みんなに聞こえるように大きな声で言ってください。そうして、その場で 一度 頭を下げてから、帰ってください。そうしないと、皆さんは動けません」

12の小さな気流が、彼等の足を その場に固定させている。
一刻も早く ここから逃げ出したいという気持ちと、『ごめんなさい』など言ってたまるかと思う気持ちの間で、彼等は葛藤しているようだった。
だが、結局、ここから逃げ出したい気持ちの方が、『ごめんなさい』を言いたくない気持ちに勝利する。

ほとんど悲鳴、ほぼ絶叫のような『ごめんなさい』が12。
光が丘公園のちびっこ広場は まるで阿鼻叫喚の巷と化したような ありさまだったが、『ごめんなさい』を叫んで動けるようになった男たちが、先を争うように ちびっこ広場から(正しくは、瞬から)逃げ去ると、そこは今度は しわぶき一つ聞こえない静寂の世界になった。






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