「ナターシャんちで いちばん強いのはナターシャだろ。氷河も瞬も、ナターシャの言いなりだ」
「そんなことないヨ。パパとマーマがいなかったら、ナターシャはご飯も食べれないんだヨ!」
「……」
ナターシャの反駁に、星矢が暫時 息を呑む。
まさか そんなオトナな答えが返ってこようとは。
それは星矢には想定外のものだった。

「ナターシャは ものの道理がわかっているな」
紫龍が感心し、
「さすが、瞬の教育が行き届いてるぜ」
星矢が 低く呻く。
ナターシャ最強説で、ナターシャの疑念を消し去ることはできないようだった。
正義の味方のパパとマーマを持つ娘として、ナターシャは 真剣に 強さや正義の意味を理解しようとしているのだ。
パパとマーマが大好きだから。
大好きな人たちを理解したいから。
パパとマーマが大好きなナターシャには、それは大々々問題なのである。

「パパはとっても強いと思うケド、パパはマーマに勝たないし、マーマは優しいから、パパがピーマン 食べなくても、パパを倒したりしないんダヨ」
ピーマンを食べ残すたびにネビュラストームを食らっていたら、命が1000あっても足りないだろう。
ナターシャは、彼女のパパとマーマを よく見ている。
氷河が瞬に勝たないこと(勝てないのではなく、勝たないこと)、瞬が氷河と戦わないこと(勝敗以前に、戦わないこと)を、ナターシャは 冷静かつ客観的に知覚し、認知している。
その上、理解しようとまでしているのだ。
幼い子供だからといって、おざなりに対応することはできないし、そもそも ナターシャの疑念を消し去ることは、容易にできることではなさそうだった。

「本当に強い奴は、喧嘩しないんだよ。瞬は、人を傷付けるのが嫌いなんだ」
「ナターシャも、ほんとは嫌いダヨ。デモ、パパが悪者を倒すのは カッコいいと思ウ。パパが あっというまに悪者を倒しちゃうのを見ると、ナターシャまで得意な気持ちになるんダヨ」
「ああ」
人を傷付けるのは嫌いだが、正義の味方が悪者を倒すのを見るのは気持ちいい。
ナターシャの その気持ちは、星矢にも わかるような気がした――もとい、はっきり わかった。
星矢自身、子供の頃、正義の味方ごっこは大好きだったのだ。

「マーマは、ナターシャに、優しいナターシャでいてねって言うノ。デモ、ナターシャは、強いナターシャも カッコいいなッテ、思うノ」
ナターシャは、颯爽と悪者を倒すパパをカッコいいと思い、パパのようになりたいと思う。
だが、『優しいナターシャちゃんでいて』と言うマーマの言いつけも守りたい。
パパが“優しいマーマ”を大好きなことも知っている。
ナターシャは、つまり、愛するパパのようになりたいと思う気持ちと、パパに愛されるものになりたいと思う気持ちの間で 揺れているのだ。
ナターシャが 普通のファザコン娘(普通のエレクトラ・コンプレックスを抱えている娘)と違うのは、彼女が母親への対抗意識を全く抱いていないことだろう(瞬はナターシャの母親ではないが)。

ともあれ、今、ナターシャは“カッコいいナターシャ”に至る道と“優しいナターシャ”に至る道の岐路に立っているのだ。
ここで迂闊な助言を与えると、その助言者は、最悪の場合、氷河のみならず瞬の逆鱗に触れることになる。
ここでナターシャにかける言葉は、ナターシャの人生を左右するだけでなく、助言者自らの命を縮めることにもなりかねない。
そう考えて、紫龍は にわかに心身を緊張させたのである。
氷河はともかく、瞬の逆鱗に触れることだけは(瞬の教育方針に逆らい、瞬の機嫌を損ねることだけは)避けたい。
紫龍は 慎重に言葉を選びながら、悩めるナターシャに 彼の意見を語り始めた。

「確かに、戦いたくないと言って、戦いを避けようとすることは、一般的には あまり恰好のいいことと思われていない。臆病、戦いから逃げる卑怯者、あるいは、単純に弱者と 見なされることが多い。最初から躊躇なく戦う方が、勝っても負けても、潔く崇高なことのように見える。時に、戦争の方が 平和より 魅力的に見えるのは。そういう理屈が働くせいだ。だが、安易に戦いを始め、その戦いで多くの犠牲が出た時、失われた命を取り戻すことはできない」
だから、氷河のように“強くてカッコいいナターシャ”ではなく、瞬が言うように“優しいナターシャ”を目指すように――と、紫龍は言ったつもりだった。
そう言ったつもりだったのだが。

紫龍は あまりに慎重に言葉を選びすぎて、彼の言わんとするところは ナターシャには通じなかったらしい。
紫龍の意見に対するナターシャの答えは、
「ナターシャ、よく ワカラナイヨ。悪者は悪者でショ」
というものだった。
思いきり 氷河的な ナターシャの理解に、紫龍は 我知らず その顔を引きつらせてしまったのである。
このままでは、天秤座の黄金聖闘士の命が危ない。
紫龍同様、己れの命の危険を察知した星矢が、慌ててフォローに入る。

「いや、それはそうなんだけど……。んーと――悪者は、氷河みたいに 問答無用でやっつけた方が かっこよく見えるかもしれないけどさ。悪者だって、誰かのパパかもしれないだろ。ナターシャくらいの小さな女の子のパパかもしれない。パパをやっつけられたら、その女の子は 悲しんで、自分のパパを倒した正義の味方を恨むと思わないか? たとえ 悪者でも、パパはパパなんだ。瞬は そういう心配をするんだよ。その気になれば あっさり やっつけられる悪者を すぐに やっつけずに、ぐっと我慢する。悪者を倒すより、悪者を悪者でなくそうとする。その我慢が できる方が偉いんだ」

悪者が誰かのパパかもしれないという例え話は、ナターシャには大きな衝撃だったらしい。
大きく瞳を見開いたナターシャの眉が つらそうに歪んだのは、彼女が、我が身を“悪者の子供”に置き換えて、その子供の気持ちを慮ったからだったろう。
ナターシャは、瞬の願い通り、人の心を思い遣ることのできる“優しいナターシャ”に育っているようだった。

「俺や氷河は 我慢できなくて、さっさと悪者をやっつけちまうけど、瞬は我慢ができる。俺たちが、瞬を強いって言うのは、そういうことだ。氷河は 悪者をやっつけて ナターシャを守るけど、瞬は、悪者を悪者でなくすことで、誰も傷付けずに ナターシャのいる世界を守ろうとするんだ。ナターシャだけでなく、悪者のうちの女の子も守ろうとする」
「ウン」
「敵をやっつけないって、本当に強くないとできないことなんだぞ。半端に強い奴は、仕返しされたくないから、敵に とどめを刺す。俺や氷河は、悪者を悪者でなくするなんて面倒だから、さっさと やっつけちまう。でも、瞬は そうしないんだ。確かに あんまりカッコよくは見えないかもしれないけど、悪者をやっつける力があるのに そうしない瞬こそが いちばん強くて、いちばん偉いって、俺たちは思ってるんだ」
「ソッカー……。マーマは強くてエライんダネ」

ナターシャは星矢の説明で わかってくれたらしい。
子供に何事かを わからせようとしたら、子供の視点で、子供の言葉で、子供のレベルで語らなければならない。
幼い翔龍を指導していた頃、常に大人の指導者として 彼に接していた自分を思い出して、紫龍は少々 反省してしまったのである。
そんな不親切で堅苦しい指導に 必死についていこうと努力し、実際に ついてきてくれた翔龍を、父として 愛おしく思い、偉かったと思う。
一人の人間を育てるということは、育てる側の人間も不完全な人間であるがゆえに、困難な事業なのだ。
ともあれ、星矢の子供レベルの説明で、ナターシャは“強さ”と“正義”の意味を、ナターシャなりに理解し、そして 好悪を決めたようだった。

「ナターシャ、決めたヨ。ナターシャは、パパみたいにカッコよくなくても、マーマみたいに 強くて優しい方がイイヨ。ナターシャは、そういうナターシャになるヨ」
「ああ、それがいい。その方が、氷河も喜ぶし、氷河は もっとずっと ナターシャを大好きになるだろう」
『氷河が喜ぶ』『氷河が大好きになる』は、ナターシャには 魔法の言葉。
ナターシャにとっては、最高の ご褒美である。
紫龍から 最高のご褒美を約束されたナターシャは、朝の陽光を受けて 花を開く オレンジ色の花のように、顔中を 喜びでいっぱいにした。






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