「マーマ」
ナターシャが いつのまにか目覚めていた。
途中まで折っていた折り紙の百合の花を 氷河の手に預けて、ナターシャが 瞬の頬に手をのばしてくる。
「マーマ、ほっぺが白いよ」
血の気が失せている頬を、ナターシャは『青い』とは言わない。
ナターシャにとって“青”は空の色。パパの瞳の色。
人の頬は真っ青にならない――というのが、ナターシャの断固たる主張だった。
氷河たちの希望の死に方を聞いているうちに、瞬の頬は 真っ青ならぬ真っ白になっていたらしい。

「あ、変な夢を見たせいだよ。大丈夫」
うっかり ナターシャに 答えてしまってから、瞬は自分の舌を噛んだ。
“変な夢”を見たことを 仲間たちには知らせていなかったのに、つい口を滑らせてしまった。
氷河たちに何か気付かれてしまったかと案じた瞬の顔を、ナターシャが真剣な眼差しで覗き込んでくる。
「夢は夢なんダヨ。ほんとのことじゃないんダヨ」
眼差しだけでなく、その声音まで、ナターシャは大真面目だった。
「ナターシャちゃん?」
乙女座の黄金聖闘士が気後れを覚えるほど、ナターシャの様子は真剣で深刻である。
それは どうやら、ナターシャも瞬と同じ経験をしたことがあるからだったらしい。

「ナターシャも恐い夢を見たことあるヨ。ナターシャは海の中にいるノ。パパとマーマはナターシャのマホウのせいで死んじゃって、海の底で眠ってるんダヨ。ナターシャが、おなか ぺこぺこだから起きてって頼んでも、一人ぽっちだと詰まらないから 起きてって頼んでも、パパとマーマは起きてくれないノ。デモ、夢はただの夢だヨネ?」
それは ただの夢なのか。
あるいは、ナターシャは、夢の世界という名の別の世界の姿を見てしまったのか。
あれも ただの夢だったのか。
あるいは、バルゴの瞬も、夢の世界という名の別の世界の姿を見てしまっただけなのか。

「デモネ。夢から覚めると、パパとマーマがいて、ナターシャにオハヨウって言ってくれタヨ。夢の中のパパとマーマはナターシャのせいで死んじゃってたケド、夢の外のパパとマーマは それでナターシャを叱ったりしなかったんダヨ。ナターシャは、パパとマーマとごはんを食べて、公園に行っタヨ。公園は いいお天気だったヨ」
「うん。そうだね」
夢で見た世界が、夢の世界のナターシャや瞬にとっては現実だったとしても、その世界の外にいるナターシャや瞬にとっては、それは夢。決して現実ではない。

別の世界の自分の言動にまで責任を負うことはできないし、もちろん責めを負わされても どうすることもできない。
白い頬のマーマを力づけるため、自分の悲しい夢の話をしてくれたナターシャを責めることなどできるわけがない。
『夢の世界で、僕たちを殺したのか』と ナターシャを責めるなど、あまりに馬鹿げている。
たとえ その世界が 誰かにとっての現実だったとしても、馬鹿げている。
それはナターシャだけでなく、バルゴの瞬――かつてのアンドロメダ座の聖闘士に対しても 同様であるはずで――そうなのだと、瞬は 自身に言い聞かせたのである。
夢の中で感じた、氷河や紫龍を切り刻んだ感触と感覚が あまりに生々しくて――そのせいで、自分は、あの夢の中の自分を 現実の自分とは別のものだと思ってしまうことができなかった。ただ、それだけ。
だが、夢の中の瞬と 夢の外にいる自分は、完全に別の人間なのだ。

だが、だとしても、瞬は夢でみたあの世界を“存在しない世界”だと断じることもできなかったのである。
どこかに存在するのかもしれない。
ああいう世界が。
――と、瞬は思った。
そして、あの悲しい、つらく不幸な世界が本当に どこかに存在するのだとしたら、今 自分が生きている この幸福な世界は、幾千万、幾億もの、複雑に絡み合った運命の糸の中から、奇跡のような確率で手繰り寄せた幸福な世界なのだろうと。

現実、夢、過去、現在、未来、異次元。
アンドロメダ座の聖闘士が ハーデスの力に屈し、仲間たちの命を奪った世界。
ナターシャが、彼女のパパとマーマを死なせてしまう世界。
どこかに、そんな世界があるのかもしれない。
自分たちが生きている世界は、無限にある多重世界の一つにすぎないのかもしれない。
この世界は、砂浜に無数にある砂の中の一粒のようなものなのかもしれない。
だとしたら――だとしても、唯一の世界である。

「……夢の世界か。『一期は夢よ、ただ狂え』と言った僧がいたな」
「あ、それ、俺も知ってる! イチゴは日持ちしなくて、すぐダメになるから、悪くなる前に食らえってんだろ」
「どこから、そんな誤った情報を仕入れてくるんだ……」
星矢は 本気で言っているのか、冗談で言っているのか。
本気で言っている可能性も皆無とは言い切れないところが、星矢の底知れなさである。
紫龍は 困ったように苦笑した。

『一期は夢よ、ただ狂え』
人の一生は、夢のように短く 儚い。ただ夢中に生きろ。
紫龍が ふいに、そんなことを呟いたのは、彼が この世界も夢にすぎないと思っているからなのか。
だとしても、紫龍が 自分の生きている世界を無価値なものと考えているはずがない。
どの世界の住人にとっても、自分の生きている世界は唯一無二。
幸福な世界も 悲惨な世界も、それは同じなのだ。
誰もが自分の世界で必死に生きている――。

「夢は夢だ。この世界に生きている俺たちにとっては、別の世界にいるおまえは、ただの夢だ。現実の世界にいるおまえは強くて美しくて幸福だ。その幸福は、俺たちが――おまえが 命をかけて戦い、勝ち取ったものだぞ」
「氷河……」
ナターシャが 瞬の隣りに座っている氷河の膝の上に移動したのは、彼女がパパの意見に賛同していることを示すためだったろう。
彼女はいつもパパの味方。パパと同じ立ち位置で、マーマを求めているのだ。

「人は、自分が生まれた世界以外の世界で生きることはできない。その別の世界が どれほど幸福な世界でも。別の世界が どれほど悲惨でも、それは同じことだ」
「……」
氷河は やはり、瞬が見た あの悪夢を覗き見てしまったか、共鳴してしまっていたのだろう。
夢の世界に気を取られ、別の世界を意識しすぎて、自分の世界に生きることが おざなりになってしまっている瞬を、氷河は案じ、牽制しているのだ。
もしかしたら、今日、星矢と紫龍が仲間の許を訪ねてきたのも、瞬が悪夢を見たことに気付いた二人が、別の世界で自分たちを殺してしまった瞬の心を案じたから――だったのかもしれない。
『そうだったのだろうか』とは、ナターシャがいるので尋ねにくい。
瞬の逡巡の隙間を埋めるように、ナターシャの声と笑顔が滑り込んできたので、結局、瞬は仲間たちの訪問理由を 彼等に確かめることはできなかった。

「ナターシャも、夢で見る世界より、起きてる時の世界の方が好きダヨ。起きてる世界はパパもマーマも あったかいヨ。マーマは百合の花の折り方を教えてくれるヨ」
「あ、そうだった。折り紙の百合の花が途中だったね」
「ウン。デモ、ナターシャは、星矢お兄ちゃんたちと お外に行くヨ」
「は?」

子供の注意力は散漫なものだが、それにしても唐突なナターシャの言葉に、瞬は目をぱちくりさせてしまったのである。
ナターシャ自身は、自分が変なことを言い出したという意識は全くないらしい。
彼女は、パパの膝とソファから下りて、一緒に お外に行く星矢と紫龍が掛けているソファから立ち上がるのを待つ素振り。
「ナターシャちゃん、急に外に行くってどうして? 外に何かあるの?」
半分以上が当惑でできた笑みを、瞬はナターシャに向けた。
問われたナターシャが、大きく首を横に振ってから、氷河と星矢と紫龍の顔を順番に見やる。
そうしてから、ナターシャの視線は もう一度 氷河の上に戻った。

「お外には 何ニモないヨ。デモ、パパがマーマをネツッポイ目で見詰め始めたら、ナターシャは気を利かせて、どこかに行くか、眠くなった振りをしなきゃならないんダヨ。星矢お兄ちゃんや紫龍おじちゃんが そう言ってタ。そうすると、パパとマーマはいつまでもナターシャを好きでいてくれるんだッテ。ナターシャ、おねむから起きたばっかりで、眠くなった振りができないカラ、ダカラ、ナターシャはお外に行くヨ」
「……」

パパに“ネツッポイ”目で見詰められていたマーマは、ナターシャの子供らしからぬ気遣いや、幼い子供に そんな気遣いを促す 星矢たちの高度な生活指導に感謝すべきなのだろうか。
小さい子供に何を教え込んでいるのだと呆れた瞬の前に、星矢が右手を差し出してくる。
「俺の きめ細やかな配慮への賛辞はいらないから、焼き芋代をくれ。ナターシャと買いに行ってくる。焼き芋屋、そろそろ 公園に来てるだろ」
星矢は 本気で、これを“きめ細やかな配慮”だと思っているのだろうか。
星矢の悪びれなさに、瞬は いっそ 感動してしまった。

「そんな配慮はいりません! ナターシャちゃん。星矢の言ったことは忘れて。氷河が どんな目で僕を見ても、ナターシャちゃんは気を利かせなくていいの。どこかに行ったり、眠くなった振りもしなくてもいいからね」
「エ? ナターシャ、気を利かせなくてイイノ?」
『ナターシャが気を利かせれば、氷河と瞬は大喜びする』と、星矢は、相当 大袈裟に ナターシャに語ったのだろう。
気を利かせなくていいのかと尋ねてくるナターシャの目は、かなり不安そうだった。

「気を利かせたりなんかしなくていいの。ナターシャちゃんは 無理にそんなことしなくていい。ナターシャちゃんは、ナターシャちゃんが いちばん楽しいと思うことをしていればいいんだよ」
「ワア!」
ナターシャは、本心では、気を利かせて どこかに行ったり、眠くなった振りをするのは 嫌だったらしい。
そんなことはしなくていいと 瞬が断じると、ナターシャは嬉しそうに 瞬の膝の上に戻ってきた。

「アノネ、マーマ。ナターシャ、ほんとは、マーマをネツッポイ目で見てるパパを見てるのが スッゴク 好きなんダヨ。ンート、パパはマーマがいてくれないと、とってもカナシイだろうなって、ナターシャ、思うノ。マーマがいてくれて、ほんとによかったって、ナターシャ、思うノ。ソレデ、ナターシャ、スッゴク嬉しくなるんダヨ。ナターシャ、どこかに行ったり、眠くなった振りしたりしないで、パパとマーマを ずっと見ていたいヨ」
「え……」

“マーマをネツッポイ目で見てるパパを見てるのが スッゴク 好き”なナターシャに、あまり熱心に彼女のパパとマーマの様子を観察されると、彼女の観察対象たちは 何かと気まずい思いをすることになるかもしれない。
かといって、幼い娘に過剰に気を利かせることを求めるのも、子供の子供らしさを損なうことだろう。
どう考えても、それは 教育上 よろしくない。

どうしたものかと、瞬は 真面目かつ真剣に悩み始めたのだが、氷河は そういう方面での愛娘の教育や躾には 全く関心がないようだった。
というより、彼は、『自分は娘に見られて困るようなことはしていない』というスタンスなのだろう。
氷河は、ナターシャが気を利かせようが、気を利かせなかろうが、そんなことは、正しく“どうでもいい”という認識でいるのだ。
氷河は、ナターシャの情操教育に悩む瞬を尻目に、娘を使って 自分の好奇心を満たすことを始めてしまった。

「ナターシャ。逆はないのか? 瞬が ネツッポイ目で俺を見ることは」
娘の教育や躾に関心がないだけならまだしも、なぜ 氷河は そんなことをナターシャに訊くのかと、瞬は軽い頭痛に襲われてしまったのである。
いったい氷河は、幼い娘から どんな情報を得ようとしているのだと。
ナターシャの答えは、『逆もある』でも『逆はない』でもなかった。

「ンートネ。マーマはネツッポクないノ。マーマは あったかいノ。マーマは、パパとナターシャがナカヨクしてると、すごくにこにこして、嬉しそうな目でパパを見るんダヨ。そういう時は、ナターシャ、気を利かせて どっかにいかない方がいいんだッテ」
それも、星矢と紫龍の こまやかな生活指導、配慮の勧めなのだろうか。
仲間たちの 至れり尽くせりの生活指導に目眩いがする。
周囲の大人たちから、事あるごとに難易度の高い指導を受け続け、そのせいで ナターシャが子供らしい天真爛漫さを失ってしまったら どうするのだ。
瞬は、ナターシャに気付かれぬよう、仲間たちを睨みつけた。
瞬の睥睨に会っても、氷河は全く動じなかったが、星矢は軽く肩を すくめた。
この場合、最も扱いに困るのは、完全に知らぬ存ぜぬ無関係のポーズをとっている紫龍である。

「とにかく、ナターシャちゃんは、そんなふうに気を利かせなくていいの。そうやって気を利かせてばかりいて、ナターシャちゃんが したいことができなくなったら、ナターシャちゃんも嫌でしょう?」
「それは、ナターシャ、ちょっと嫌だケド……。ナターシャ、気を利かせて 焼き芋を買いにいかなくていいノ? ナターシャ、焼き芋 食べたいヨ」
「ナターシャちゃん、焼き芋が食べたいの?」
この場合、ナターシャが気を利かせて 焼き芋を買いに行くのはNG。
焼き芋を食べたいから、買いに行くのはOK。
ナターシャに気を遣わせず、焼き芋を買いに行くために、瞬は、
「じゃあ、みんなで 焼き芋を買いに行こうか」
という案を提示した。

「ワア! みんなで オデカケ !? ナターシャ、大賛成ダヨ! 早く行コウ! 急がないと、焼き芋が売り切れちゃうかもしれないヨ!」
笑顔全開のナターシャに急かされ、結局、氷河のために気を利かせるつもりなど毫もなかった紫龍や 気を利かせてもらう側の人間であるはずの氷河までが、気を利かせて(?)焼き芋を買いに行くことになってしまった。
なぜ そんなことになるのか得心できない氷河は 文句を言いたげだったが、ナターシャが すっかり その気なので 文句を言うわけにもいかなかったのだろう。
掛けていたソファから立ち上がった彼の顔は、複雑怪奇に引きつっていた。

そんなふうに――現実の世界は、目眩いがするほど平和だったのである。
こんなに平和でいいのだろうかと思うほど、あの悪夢の世界が夢に思えるほど――実際、それは夢以外の何物でもないのだが――瞬たちが生きている現実の世界は平和だった。






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