小さな頃は、兄さんこそが僕の英雄だった。
星矢に出会ってからは、星矢と兄さんが僕の英雄になった。
僕自身は そんな大層なものじゃなく、ただ星矢や兄さんを支えられる僕になれればいいと思っていた。
それ以上のことは望まなかった。
それだけでも随分と大変なことだったしね。

結果論にすぎないけど、100人の候補の中から、たった10人の合格者の中に、僕は残った。
しかも世界に88人しかいない聖闘士の一人に名を連ねることができるようになった。
泣き虫の みそっかすの僕にしては、十分すぎるほど立派な成果。
上出来だと思ってたよ。
だから、誇りをもって戦った。
兄さんや星矢を支えて、氷河や紫龍たちと一緒に。

僕の世界でも、冥界との戦いがあった。
僕の世界でも、僕はハーデスの依り代だった。
そういう世界が、もしかしたら無数にあるのかもしれない。
あるいは、この世界だけが、僕の世界にここまで似ているから、僕はこの世界に心惹かれて干渉することになったのかもしれない。
真実は知らない。
僕は ただの人間だから。


僕は――僕は 星矢と兄さんを支え守るために存在するものなのに、そのはずだったのに、僕の世界では 星矢と兄さんが死んでしまったんだ。
僕と世界を守るため、僕を庇って――言ってみれば、脇役の僕を守るために、世界という舞台の主役が死んでしまった。
多分、それで、僕の世界は何かが狂った。

兄さんも星矢も死んでしまったら、世界は滅びるしかない。
アテナが消え、ハーデスが消え、神々の力が世界から消滅していくのを、僕は感じていた。
人間だけが残る。
ハーデスが、少しでも 自分の力と存在を残そうとして、僕の中に逃げ込んできた。
アテナと伍するほどの力、アテナを倒すこともできるほど強大な力を誇っていたハーデスが、既に 僕を支配する力も持っていなかったけどね。

僕と氷河と紫龍は、言ってみれば、英雄という主役を支える引き立て役だ。
卑下するわけじゃないけど、僕たちだけじゃ駄目なんだと思ってた。
そして、あの時、アテナもハーデスも消えてしまったエリシオンで、生き延びられる可能性があるのは僕だけだった。
氷河と紫龍は失血がひどくて――僕だけ。

でも、わかるでしょう?
生き残っても、それが僕では 何にもならない。
僕だけでは、何にもならない。
だから、一緒に滅びようと――言葉にはしなかったけど、きっと 僕の世界の氷河と紫龍には、僕の思いはわかっていたと思う。

アテナは消えたけど、ハーデスも消えて、地上世界は人間だけのものになった。
地上世界をどうするのかを決めるのは 人間の仕事で、その仕事に 神やアテナの聖闘士は関わるべきじゃない。
こういう言い方は何だけど、心置きなく消えてしまえる状況だったんだよ、僕たちは。
神話の時代から連綿と存在し続けてきた 色々なものが消え去ろうとしているのに、エリシオンでは花が狂ったように舞い散っていて――不思議だなあって、綺麗だなあって、僕は ぼんやり 思ってた。

「僕たち、きっと ここで滅びるのが定めなんだね」
悲しくもなく、つらくもなく、自棄の気持ちも諦観もなく、安らぎ満ち足りた気持ちで、僕が そう言ったら、
「定めなどない!」
と、氷河が怒鳴り声を上げた。
その一言――その一言で、僕が満足や安らぎだと感じているものが、実は諦めや絶望でしかないっていう悲しい事実を、氷河は白日のもとにさらけ出してしまったんだ。

僕が倒れて、氷河が倒れて、紫龍が倒れて、倒れた僕たちを乗り越えて、兄さんは先に進む。敵に向かう。
敵に立ち向かう兄さんが倒れれば、今度は星矢が。
そして、ついには アテナがハーデスを倒す。
地上世界を滅ぼそうとする最大の敵が倒され、倒したアテナが消え、星矢が、兄さんが、その命を終えた。
それは、僕たちの戦いが これで終わるということ。
それが定め。
これは予定調和。

氷河が白日のもとに さらけ出したのは、すべてが定め通りに終わった今になって示しても空しい抵抗。わざわざ暴露しなくてもいい事実だったのに。
“僕たちは脇役にすぎなかった”――そんな事実を、今更 暴露してどうするの。どうなるの。
僕は、そう思った。
思ったのに。
「定めなどない!」
氷河は、そう叫んだ。
すべては定め通りに進み、定め通りに終わったのに。

「定め通りに生きるために 俺たちは生まれてきたのか? そんなはずはない。もしそうなら、世界は存在する必要がない。決まった結末しかないのなら、生きてみる必要はないじゃないか。決まった結末しかないのだとしても、もしかしたら、決まった結末に至る過程に意味があるのかもしれない。もし その過程にも意味がなく、世界に存在する意味がないのだとしても――」
最初から定まった運命などないから 生き続けることを諦めるなと、氷河は言いたいんだろうけど――氷河は 何だか墓穴を掘ってるみたいだった。
世界が存在することに意味はないから、みんなで ここで死んでしまおうっていう、氷河が至りたい結論とは逆の方向に向かって、氷河は走っている。

死を目前にして、氷河は 少し混乱しているんだ。
氷河の白鳥座の神聖衣は、血の色で深紅。
氷河には もう、まともな判断力は残っていない。
僕は そう思った。
そう思ったのに。

「いや。面倒な理屈はいらない。どうせ、俺には うまく言えない。ただ俺は、おまえに生きていてほしい。おまえが幸せになれる可能性が 少しでもあるのなら、おまえに生きていてほしい。なぜかは わからない。皆で死んでしまった方が楽なのかもしれない。だが、おまえには生きていてほしい。瞬。俺は、おまえに生きていてほしいんだ」
氷河に そう言われて、僕は思い出した。
氷河は、理屈や論理を投げ捨てた時に いちばん 説得力を発揮する男だってことを。

「おかしいか? おかしいか、瞬? この先、おまえが誰かに出会い、幸福を感じられる時が来る可能性が僅かでもあるのなら、俺はおまえに生きていてほしい。たとえ死ぬにしても、今 ここで 一輝や仲間を失った絶望に負けて死ぬのではなく、誰かのために――誰かの希望のために、そうしてほしい」
「誰かの希望のため……?」
「それが おまえの生き方で、おまえの死に方だと思う」
「……」

氷河は、相変わらず 滅茶苦茶だ。
定めなんか、どうでもいい。
理屈も、世界の平和も、誰が英雄だとか、誰が脇役だとか、そんなことも どうでもいい。
僕の考えも、僕の望みも都合も、すべて無視。
『俺が そうしてほしいから、生き続けろ』
つまり、氷河は、そう言っている。

滅茶苦茶だよ。
氷河は死にかけているんだよ。
紫龍も そろそろ限界。
兄さんは死んだ。
星矢も死んだ。
僕に、たった一人で生き残って、たった一人で生き続けろっていうの?
それが、氷河の思い描く、僕の正しい理想の生き方だから?

氷河。
そんな無理 言わないで。
氷河。
最後くらい、僕を甘やかして。
一緒に死のうって言って。
僕たちは いつまでも一緒だって言って。
氷河、お願いだから!

叫びのような その訴えを、僕は声に出したのか。
それとも、言葉にはせず、ただ泣いていたのか。
氷河の命の火が消えようとしていた。
花の中に倒れていた紫龍が、いつものように、氷河の我儘に苦笑する。

「瞬。人の命に、俺たちの生きている世界に、定めなどない。氷河の言う通りだ」
「紫龍……」
かすれた声。
紫龍の言葉は、途中から小宇宙混じりの それになった。
「この世界では星矢が主役、おまえの世界では 一輝が主役だったかもしれない。だが、氷河の世界では、瞬。いつも おまえが主役だったと思うぞ」
「え……」
もう十分 泣いていたのに、僕が 一層 泣きたくなったのは、紫龍の世界にも 紫龍の世界の主役がいたのだと思うから。

「紫龍の世界にも、紫龍だけの主役がいたんだね……」
紫龍が、声のない微笑みだけで、『そうだ』と答える。
それを、僕は、紫龍らしい照れや謙虚さゆえの 声なき返事なのだと思ったんだけど、そうではなかった。
紫龍はもう 目を開けていることさえ つらくなっていたんだ。
紫龍は、言葉ではなく、小宇宙でもなく、思念で、訴えてきた。
――あの人に、『生きろ』と伝えてくれ――。

紫龍の大切な人に、紫龍の伝言を伝えるためには、僕はここで死ぬわけにはいかない。
我儘な氷河とは対照的に――むしろ、ほぼ真逆に――常識的で穏和な紫龍までが、今は 僕に、生き続けることを求めていた。
あの人に『生きろ』と伝えて――。
つらくても、悲しくても、寂しくても、『生きろ』。
それは『愛している』という言葉と同義なんだ。


“――おまえには まだ命が――生きる力が残っている。
ならば、生きろ。
生き続けていれば、救える命があるかもしれない。
おまえにしか 守ってやれない幸福があるかもしれない。
その時のために、瞬、生きていてくれ。
誰かの希望のために生き、そして 死ぬ。
それが、おまえらしい生き方。おまえらしい死に方。
おまえには、おまえらしく生きて、おまえらしく死んでほしい。
おまえが死ぬ時は、今じゃない。”


氷河の肉体は、既に死んでいたのかもしれない。
それは、既に死した氷河の最期の思いだったのかもしれない。

「氷河は……?」
氷河は、それで満足なの?
(おまえを守って死ねるなら、おまえに我儘を言いながら死ねるなら、俺は幸福なんだ)
『生きろ』――『愛している』
(瞬、生きろ)
紫龍の最期の言葉と同じように、僕の氷河の最後の言葉も、『生きろ』だった。






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