Beautiful child






「一輝ニーサンは、アケマシテ オメデトウに 来てくれないのカナ……」
壁のカレンダーを見詰めながら、ナターシャが心配そうに呟いたのは、彼女がカレンダーの見方を覚えてしまったせいだった。
冬の星座の天文写真の下に1月の日付が丸い文字で書かれている、今年の最初の月のカレンダー。
7日置きに 青い星と赤い星の印が日にちを示す数字に付され、その日が土曜日と日曜日であることを示している。
今日がどういう日であるのかを、ナターシャは正しく理解していた。

知識の増加は 人間に考え事を増やし、それに ほぼ比例して心配事も増える。
昨日 マーマに“松の内”という言葉と その意味を教えてもらったこともまた、ナターシャの心配を募らせる原因の一つになっていた。
地方によって違いはあるが、一般的に東京では、12月13日から1月7日までを“松の内”といい、1月1日から 松の内が終わる1月7日までの期間を“新年の お祝いの期間”と見なすことが多い。
松の内が過ぎれば、家々では 門前や玄関に飾った門松を片付けて、“新年の お祝いの期間”は終わる。
――ということを、ナターシャは 昨日 マーマに教えてもらったのだ。
つまり、7日までに、一輝ニーサンが ナターシャの許に来てくれないと、ナターシャは 一輝ニーサンから今年の お年玉をもらうことはできないという、非常に重大な事実を。

星矢と紫龍から、それぞれ1000円。
パパとマーマから 2000円をもらった。
ここに一輝ニーサンが来て、1000円をくれれば、ナターシャのお年玉は 合計5000円になる。
5000円になると、お札の種類が変わるので、ナターシャは 大金持ちになるのだ(というのが、ナターシャの認識だった)。
この調子でいくと、いつものペースで 今日は明日になる。
そして、松の内は 明日には終わってしまうだろう。
一輝ニーサンが明日までに ナターシャに会いに来てくれないと、ナターシャは大金持ちになり損なってしまうのだ。
星矢と紫龍は 今日が既に 今年2度目の訪問だというのに、一輝ニーサンは なぜナターシャに会いに来てくれないのか。
もしかしたら、一輝ニーサンは ナターシャのことを あまり好きではないのだろうか――。

小さな胸を不安に締めつけられながら、ナターシャは、先ほどから 松の内の終わる1月7日の日付を見詰めては 切ない溜め息を繰り返していたのである。
そんなナターシャを困ったように見やり、気まずい口調で 瞬は告げたのだった。
「ごめんね、ナターシャちゃん。もしかすると 一輝兄さんは、今年は アケマシテ オメデトウに来てくれないかもしれない……」
「エ……」
何度目かの溜め息を 吐き出す前に呑み込んで、ナターシャは、その視線をカレンダーの1月7日の上から瞬の方へと移動させてきた。
ナターシャの切ない眼差しを受けとめて、今度は 瞬が息を呑むことになってしまったのである。

なにしろ 昨年12月、『イイコにしてたら、サンタさんは ナターシャのところに来てくれるカナ』『イイコにしてたら、ナターシャは お年玉をいっぱい もらえるカナ』とナターシャに尋ねられるたび、瞬は、期待に瞳を輝かせているナターシャに、『うん、きっとね』と答えてきたのだ。
この状況は、瞬には 非常に気まずいものだったのだ。
昨年1年間、ナターシャは とても いい子だったから。

娘が大金持ちになれるかなれないのかの瀬戸際にいるというのに、瞬とは対照的に、氷河には、ナターシャの財政状況を案じている気配が まるで感じられない。
逆に、至って嬉しそうに、氷河は 瞬の兄を責め始めた。
「うむ。一輝は来ないだろう。あいつは せこい男だ。おそらく、ナターシャに渡す お年玉をケチっているんだな」
「一輝ニーサンは、ナターシャにお年玉を渡したくないから、アケマシテ オメデトウに来てくれないノ? 一輝ニーサンは セコイオトコなの?」
パパの言葉を、ナターシャは(とりあえず)何でも信じることにしている。
素直過ぎるナターシャに、瞬は慌てて教育的(?)指導を入れた。

「そ……そんなことないよ、ナターシャちゃん! 一輝兄さんが来ないのは ナターシャちゃんにお年玉をあげたくないからじゃなく、新年早々 僕に会うのは 縁起が悪いからで……」
「おまえに会うのが 縁起が悪い? 何だ、それは」
それまで 嬉しそうに瞬の兄の評判を落とすことに これ努めていた氷河が、ふいに真顔になる。
『たとえ ナターシャを安心させるための嘘であっても、それは聞き捨てならない』
そういう目を、氷河は 瞬に向けてきた。
「あ……」
その視線を受けて、瞬が自分の迂闊に臍を噛む。
ナターシャを安心させるために つい口をすべらせて、瞬は、ナターシャのみならず 氷河に対しても、自らを困った立場に追い込んでしまったようだった。

「おまえは星矢ほどには おめでたい顔はしていないかもしれないが、見るだけで 眼福だ。少なくとも 一輝のツラを見るより はるかに、得をした気分になれる。縁起が悪いということはないだろう」
「氷河。おまえ、どさくさに紛れて、ちゃっかり 俺を馬鹿にしてないか?」
舌鼓を打っていた雑煮から 顔を上げて 氷河に物言いをつけたのは、瞬より“おめでたい”顔の持ち主であるところの星矢だった。
馬鹿にしているわけではないのかもしれないが、決して敬っているようでもない氷河の発言。
その意図を問い質す星矢の口調に あまり刺々しさがないのは、今 彼が食べている雑煮が 氷河の作ったものであり、かつ それが素晴らしい美味だから――だった。

幼い頃から慣れ親しんだ家族の雑煮というものを持たない氷河と瞬が、“我が家の雑煮”として共同開発した海鮮出汁の雑煮。
まだ松の内だというのに、星矢が早くも今年二度目のナターシャ宅訪問に及んだのは、その美味に引かれてのことだったのだ。
ちなみに、紫龍までが ここにいるのは、そうするのが当然のことであるかのように、星矢が彼(家庭持ちで仕事持ち)を引っ張ってきたからである。

「顔がオメデタイのは よくないことナノ? マーマに会うのは縁起が悪いノ? 紫龍おじちゃんの顔はどっち?」
星矢の顔がオメデタイことには疑念を抱いていないらしいナターシャの素朴な質問に、星矢が オメデタイ顔を微妙に歪ませる。
ナターシャの親権者として、星矢に対しても困った立場に追い込まれてしまった瞬は、これで紫龍までを敵(?)にまわしてしまったら、新年早々 『四面楚歌』の具現に成功してしまっていただろう。

「星矢が オメデタイっていうのは、星矢がいつも お陽様みたいに明るくて元気だっていう意味だよ。とっても いいこと。紫龍は、優しくて穏やかで、見ていると ほっと安心できる顔かな。人は みんな、それぞれに素敵な顔をしているんだよ。僕に会うのが縁起が悪いっていうのは……僕が 子供の頃から ずっと、兄さんの疫病神みたいなものだったからで――」
そう言ってしまってから、成り行きで そんなことになってしまったとはいえ、おめでたくあるべき 正月にふさわしくない話題を持ち出してしまった自分の迂闊を、瞬は またしても悔やむことになったのである。
だが、一度 声に出してしまった言葉を消し去ることは、アテナの聖闘士の力をもってしても不可能。
氷河は、この件を うやむやのままで済ませる気のない険しい顔。
瞬は、話を続けるしかなかった。
懸命に 微笑で話の内容を和らげながら。

「施設にいた頃、その……色々あって、僕は、施設の人たちに いじめられたり 疎んじられることが何度もあったの。一輝兄さんは、そんな僕を庇って 騒ぎを起こして、別の施設に移動させられることが多かった。僕がいなかったら、あんなに施設を転々とさせられることもなく、兄さんは もう少し落ち着いた暮らしができていたと思う」
「それは単に、一輝が乱暴者で素行不良で、攻撃的かつ愛想無しのガキだったからだろう。おまえのせいじゃない」
「そんなことないよ。一輝兄さんは、僕が いじめられさえしなければ、いつだって、とっても礼儀正しい子供だった」
「おまえは、一輝を買いかぶりすぎている。俺を見ろ。俺は おまえをいじめたことなどないのに、一輝は いつも俺に対して攻撃的だぞ」
「それは、おまえの不徳のせいだろう」

極めて冷ややかに 紫龍が そう言い切ったのは、彼が 一輝の味方だから――ではない。
もちろん、彼は氷河の味方でもなく、だが、彼の断言は 氷河を非難するためのものでもなかった。
そうではなく――彼は、一輝が攻撃的態度を示す対象が 氷河だけであるという事実を、氷河に思い起こさせようとしたのである。
紫龍自身や瞬、星矢は言うに及ばず、氷河の娘であるナターシャに対しても、一輝は、決して 愛想がいいわけではないが、攻撃的でもなかったのだ。

「何を言う。この世に 俺ほど有徳の人間は――」
『いない』と続けることは、さすがの氷河にもはばかられたのだろう。
言葉を途切らせて、彼はむすっと 口を尖らせた。
瞬が、慌てて 仲間たちの執り成しにかかる。
「でも、子供の頃の兄さんの不運不遇の原因は、ほとんど すべて僕だったんだよ。……もしかしたら ハーデスのせいだったのかもしれないけど、僕の周囲に 変な陰が見えるとか、不幸な出来事ばかり起こるとか、そんなことを どこの施設に行っても言われて……」

「だとしても、昔の話だ。今 一輝が来ないのは、ナターシャへのお年玉をケチっているからだろう」
瞬の口からハーデスの名が出た途端、氷河は話の方向を変えた。
それは 氷河にとって“一輝”より不愉快な名前なのだ。
僅かでも 冥府の王が関わってくるなら、そんな話を続ける気はない。――ということのようだった。






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