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「クローン? 僕のですか?」
それは驚いて しかるべきこと。
驚いて当然、驚かない方がおかしい大事件だった。
自分のクローンの存在を知らされて驚かない人間がいたら、彼(彼女)は 余程の鈍感。
あるいは、自分という個体以外の存在に 全く関心を抱いていない非社会的人間である。
無論、その話を全く信じず、奇をてらった嘘か冗談だと思った――ということもあるかもしれないが。

瞬は、その事実を知らされた時、驚くことができなかった。
自分という個体以外の存在に関心を抱いていなかったからではない。
その話を、嘘や冗談だと思ったわけでもない。
その事実を瞬に知らせてきたのは、畏れ多くも女神アテナ。
疑うことが(基本的に)許されない相手だったのだ――もちろん、疑ったわけではない。

冥界での戦いの後のあれこれが やっと落ち着いたばかり。
人的にも物的にも 甚大な損害を被り、希望以外のすべてを失ったような聖域の再建に、これから皆で取り組もうとしている時だった。
聖域再建の道は長く遠く険しく厳しいものになるだろう。
破壊された建造物や施設は ともかく、失われた命を取り戻すことはできないのだから。
だが、だからこそ、絶望や諦観に囚われることのないよう、生き残った者たちは 意識して 心身を引き締めていた。
そんな時に、よもや アテナが、希望にも鼓舞にもならない冗談を口にするとは、瞬には思えなかったのだ。

だから、瞬は、アテナの話を疑ったわけではない。
彼女の話を嘘や冗談と思ったわけではなかった。
にもかかわらず、瞬が その話に驚かなかったのは、端的に言えば、“意味がわからなかったから”。
それが嘘や冗談ではないとして――事実だとしたら、誰が何のために アンドロメダ座の聖闘士のクローンなどを作ったというのか。
誰に その必要があったというのか。
そもそも、当人に無許可で そんなことができるものだろうか。
無断で行なったのなら、それは生命倫理学的に大きな問題のある暴挙である。
とにかく、それは、あり得ないこと。
作り話にしても 理解の範疇を越えていたので、瞬は驚きに至ることができず――怒りもせず、笑いもせず――ただ あっけにとられること(だけ)をしたのだった。

瞬から、非難や反論や質問が発せられないのをいいことに(?)、沙織が、瞬には理解できない“もの”に関する情報を更に 瞬に手渡してくる。
「年齢は あなたと1歳と違わないわ。おそらく、あなたが生まれて1年以内に、どういう方法でか、あなたの体細胞を入手し、それを他の受精卵の細胞核に置き換えるという形で、あの者は作られた――生まれたのだと思います」
驚愕の事実を語る沙織の声は 落ち着いている。
「僕が1歳にもなっていない時に? いったい 誰が、何のために そんなことをしたんです。いえ、それ以前に そんなことは あり得ません」
沙織の声とは対照的に 掠れ上擦った自分の声を聞いて、瞬は、自分が全く冷静でないことを自覚した。
瞬は 単に 取り乱していないだけだった。

「僕がアテナの聖闘士になってからなら ともかく、赤ん坊の僕のクローンを作って何になるんです。僕は ただの孤児で――僕のクローンを作る価値なんてなかったはず……」
と 沙織に訴えているうちに、人間社会の外になら、“ただの孤児”に価値を見い出す者たちがいたことを、瞬は思い出した。
瞬が思い出したことを察したらしい沙織が、不本意そうに 瞬に頷いてみせる。
「あなたのクローンを作ったのは、ヒュプノスらしいわ」
「……」

沙織の口からは、案に相違せず、冥府の王に関わる者の名が出てきた。
沙織から ハーデスに連なる神の名を聞かされた瞬は、憤りより、むしろ嫌悪や倦怠、食傷に似た気持ちを抱いてしまったのである。
ハーデスや冥界に関わる人や物には もう二度と関わり合いたくない――というのが、瞬の本音だったので。

「ヒュプノスは、ハーデスが あなたを支配できなかった時の予備の器として、あの者を作ったのでしょう。冥府の王が 自分の失敗を想定することがあったとは思えないから、ハーデスの命令によるものではなかったでしょうね。十中八九、ヒュプノスが独断で行なったこと。エリシオンで育てていたようよ。ハーデスは知らなかったのか、知っていて知らぬ振りをしていたのか……」
「……」
おそらく後者だろう。
ハーデスが、彼の支配する世界で行なわれていることに気付いていなかったということは考えにくい。
気付いてはいたが――ハーデスは予備の器の存在を無視したのだ。
それが、彼にとっては全く無意味な存在だったから。

それにしても、タナトスほど無思慮・粗暴ではないにしろ、傲慢・冷酷に人間を見下していた あの眠りの神が、人間の子供を育てた――とは。
人間の子供を 彼が どのように育てたのか、それを考えただけで、瞬はぞっとしてしまったのである。
ヒュプノスが、愛情をもって 人間の子供を育てたはずがない。

「地上で最も清らかな魂の持ち主というのは、そんなに簡単に量産できるものなのか」
冷ややかな声で、氷河が 軽蔑するように そう言ったのは、それでなくても曇りがちだった瞬の瞼が、沙織の説明を聞いて 一層深い翳りを帯びるのを認めたからだったろう。
憂いよりは 憤りや軽蔑の感情の方が、人の心に活気を与え、活動的にする。
氷河の その言葉に触発されて活動的になったのは、残念ながら 瞬ではなく星矢の方だったが。
ヒュプノスの仕業に対して、星矢は、氷河とは違う方向に意外の念を覚えたようだった。
「俺、神様ってのは、人ひとりくらい、魔法みたいに作り出せるもんだと思ってたぜ。わざわざ 赤んぼから育てなくてもさ」
「まさか」
首を横に振ることで、沙織は 星矢に彼の誤認を知らせてきた。

「ヒュプノスに、そんな力はないわ。ゼウスにさえ――ギリシャでは、人間は大地から生まれたことになっている。ギリシャに人類創造の神話はないのよ。人間は神同様、最初から地上にいた」
「なのに、あいつら、あんなに偉そうだったのかよ !? 」
星矢は、自分が二流と断じた神たちに、改めて呆れることになったのだろう。
両腕を背もたれに引っ掛ける恰好で、彼は ラウンジの三人掛けのソファの中央に 自身の身体を投げ出した。

「二流神とは言い得て妙。絶妙のネーミングだったな。確かに二流だ。“清らかであること”と“汚れていないこと”は別物だということが わからない馬鹿者。“清らか”と“無”が別物だということも わからぬド阿呆。汚れが満ちている人の世で生きて、その汚れを浄化してきた者と、無菌室で命を永らえてきただけの者は、全く違う存在だろう。そんなことも わかっていなかったのなら、あいつ等は 普通に低脳だ」
吐き出すように言う氷河に、星矢が賛同の意を示す。

「まったくだぜ。天然物と養殖物じゃあ、おんなじウナギでも、全然 味が違うのに」
「瞬をウナギなんぞに例えるな」
「んじゃ、天然マイタケと養殖マイタケ」
「おまえは食い物から離れられないのか」
「なら、イノシシとブタ」
「少しも離れていないじゃないか! せめて、天然ダイヤと人造ダイヤくらい、言ってくれ」
瞬を例えるのに、有機物より無機物の方を より適切と 氷河が思うのは、彼が瞬を“生物”より“美しいもの”に分類しているからなのかもしれなかった。
氷河が口にした分類に、沙織が切なそうな溜め息を洩らす。

「ダイヤなら問題はなかったのだけれど……。人間のクローンには命がある。命の価値は、天然のものと人造のものとで違いはないわ。冥界が崩壊した今、彼には 無菌室から出て、汚れの満ちている人の世で 生きていってもらわなければならない」
冥界の崩壊時、沙織は――アテナは、彼女と彼女の聖闘士たち以外に、本来なら あの場にあるべきではない命ある人間の存在に気付き、それが何であるのかを確かめもせずに 地上世界に運んだのだそうだった。
それは、とても弱い存在で――心身共に 極めて頼りない存在で、人の世で生き続けることができるかどうかも覚束なかったため、保護から1ヶ月以上、グラードのメディカルラボで 検査を繰り返しながら 療養をしていた――ということだった。

「冥界の崩壊時にエリシオンから運んだんですか? あの混乱の中でよく――」
紫龍が、低く感嘆の声を洩らす。
それができるだけの力を持っているから神――ということなのだろう。
ハーデスとの決戦が行なわれたエリシオンから超次元を超え、崩壊する冥界を過ぎ、光あふれる地上世界への帰還を果たすまで、人間である青銅聖闘士たちは 我が身を移動させることだけで手一杯、周囲の様子に注意を向ける余裕すらなかった。

が、それほどの力を持つ神も、心に関しては、人間のそれと大きな差異はないのかもしれない。
沙織は その強大な力に不釣り合いな憂い顔を作った。
「見付けてくれと言わんばかりに、エリシオンの花園の真ん中に ぽつんと立っていたのよ。彼は……瞬のクローンといっても、瞬が数ヶ月 年上なだけ。外見は、親子というより、双子の兄弟のようなものよ。ヒュプノスは、彼を ハーデスの意思によって操る人形程度にしか考えていなかったらしくて、命の維持に必要なことだけしかしていなかった。つまり、彼は、人間社会で 一人の人間として生きるための教育を 全く受けていない」
“彼”は、命を永らえるために必要なことはできる。
言葉も解する。
おそらく自己主張することが許されなかったために、極めて従順。
その内面は、極めて大人しい3、4歳の子供のようなものだ――と、沙織は言った。

「どうすべきか 悩んだの。瞬にも彼にも事実を知らせず、会わせることもしないのが、二人にとって最善なのかもしれないとも思った。でも、そうすると、彼は、自分が何者なのかを知らず、自分のアイデンティティをどこに求めればいいのかも わからないままで、自分の生を生きていくことになる。それは あまりに悲しいから……」
心持ち 伏せていた瞼を、沙織は ゆるやかに瞬の方に巡らせてきた。
「しばらく あなた方と一緒に暮らしてもらって、その結果を見てから、どうするのが 最も彼のためになるのかを決めようと思うの。もちろん、決めるのは彼自身なのだけど、何も知らない人間には 何かを決めることすらできないでしょう? だから、まず 判断し 決断するのに必要な知識と情報を彼に与えて――すべては それからだと思うのよ」

どれほど絶望的な状況にあっっても希望を失わないことを身上にしている沙織の表情から 厳しさが消えないのは、彼女が前途の多難を 避けられないものとして予測しているからなのだろうか。
“どうするのが 最も彼のためになるのかを決める”も何も、彼は 聖闘士になるための修行はしていないのだから、一般の人間として生きていくしかないだろう。
一般的常識的に考えれば、彼が一人の人間として生きていけるようにするのが、彼の親権者もしくは社会の務め――ということになる。
クローンである彼の“親”とは誰か、社会的に その存在が認められていない彼にとって“社会”とは何なのか等、根本的な問題は幾つも残るが、であればこそ 尚更、“しばらく一緒に暮らす”は有効な対応策なのかもしれない。

「名前は 何というんですか」
沙織に尋ねてから、あの傲慢な神のこと、人形に名をすら与えていなかったということも考えられると、瞬は案じたのである。
名前も与えずに、“あれ”や“それ”で済ませていたのではないか――と。
さすがにそれは杞憂だったらしい。
彼に名は与えられていたようだった。
沙織が、浮かぬ口調で、彼の名を口にする。

「スキア――と呼ばれていたらしいわ」
「スキア? 何なんですか、その名前」
スキア――“影”。
それは、我が子の健やかな成長や幸福を願う親なら、まずつけない名である。
そんな名を、“彼”は自分の名として受け入れ、これまでの十数年間を生きてきたのだろうか――生きることを強いられてきたのだろうか。
人間の尊厳など認めそうにもない、あの眠りの神に。

“彼”に会う前から、瞬の心は 憂いと懸念で充溢していた。
それらは、瞬の心の中から 溢れ出そうだった。






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