エリシオンは 花々の咲き乱れる至福の楽園。
だが、あの花園に咲いていた花たちは皆、すべて紛い物だったろう。
あの花園に、太陽の光はなかったのだから。

おそらく 陽光のない場所で生きていたせいなのだろう――スキアは瞬より肌が白かった。
遺伝子は同じなのだから、その肌の白さは後天的なものである。
身体が弱そうに見えるのは、肌の白さのせいか、覇気が感じられないせいか、あるいは実際に弱いのか。
ただ 造形は見事だった。
顔立ちも、肢体のプロポーションも、見事。
ヒュプノスは、彼が仕える神のために、冥府の王の依り代の美しさを損ねないために 細心の注意を払っていたらしい。
少なくともスキアは、身体的視覚的な美しさで 瞬に劣る部分はなかった。
瞳の輝き以外には、全く。

「スーパーナルシストのハーデスが気に入るように作られた人形かあ……」
『感嘆』には、“感心して褒め称えること”と“嘆き悲しむこと”という 二つの意味がある。
城戸邸のラウンジに連れてこられたスキアを見て、星矢は、正しく感嘆の息を洩らした。
「見事な人造ダイヤだな。まさに遺伝子の設計図通りに作られた完全コピー品だ」
氷河の口調が突き放すように素っ気ないのは、瞬そっくりの人形の人となりが わからないので、用心して。
「仏作って――」
『魂入れず』と 紫龍が続けなかったのは、自分が感じた印象を正直に言葉にすることの残酷に、彼が気付いてしまったから。
「――」
自分のクローンに対して、瞬が何も言えなかったのは、悪意も善意も感じられない その人を、まさか『綺麗な人ですね』と評するわけにはいかなかったから――だった。

瞬のクローンであるスキアは、彼のオリジナルである瞬を、無言で凝視していた。
瞬を見て、瞬の外見が自分と同じであることはわかったらしい。
言葉は解すると知らされていたが、スキアは無言。
瞬が、自分と仲間たちの名を教えても、彼は、『はじめまして』はおろか、自分の名を名乗ろうとさえしなかった。
エリシオンで、彼は、口答えはもちろん、質問や意見を述べることさえ許されていなかったのかもしれない。

「わからないことがあったら、何でも訊いてくださいね」
「困ったことがあったら、遠慮せずに言ってください」
「僕たち、できるだけのことをしますから」
瞬が何を言っても――言葉の意味は わかっているはずなのに、彼は あくまで無言だった。
明るくなく、親しみやすくもないが、攻撃的なわけでもなく、気弱そうで所在無げな佇まい。
瞬たちが 瞬のクローンとの最初の対面を果たした日、結局 スキアは最後まで 一言も言葉を発することがなかった。

スキアが 瞬たちの会話を解しているのは、彼の視線の動きや所作から確認できるし、言葉を発しないだけで、短い間投詞は口にするので、彼の発声機能に問題がないことも確実。
彼は意識して沈黙を守っているのか、あるいは 怯えて 言葉を発することができずにいる。その どちらかであるようだった。

悪意や害意を示されなければ、その人は いい人である。
瞬にとっては。
好意や善意を示されなければ、仲間以外は他人だった。
氷河にとっては。
氷河と瞬は、スキアに対して、そのように振舞い始めた。
瞬がスキアに対して やたらと気遣わしげで優しいことに、氷河が機嫌を悪くするのに、さほど長い時間はかからなかった。


「あんな得体の知れない奴に、どうして おまえが こんなに気を遣う必要があるんだ! おまえ、あんなに不愛想な ぽっと出のよそ者に、俺より優しくしてやっていないか !? 」
全く発言しないせいで 存在感が希薄とはいえ、スキアのいる場所で そんなことを わめき始める氷河の無神経に驚き慌てたのは、瞬だけではなかったのである。
瞬の困ったような顔、紫龍の渋面、星矢の呆れ顔を見ても、もちろん 氷河は自らの発言を撤回せず、声を潜めることもしなかった。

「僕がスキアに親切にするのは 当然のことでしょう。彼は、人間社会で生きていく術を知らないんだから、知っているものが教えてあげるのは、当たりまえ。氷河も スキアに力を貸してあげて」
まさか、スキアのいるところで、『彼はクローンなのだから、親切にしてあげて』と言うことはできない。
できれば、彼の出自やエリシオンで過ごした年月についてのあれこれを、彼の前で語り、思い出させることはしたくない。
瞬は、そのあたりのことを さりげなく曖昧に 氷河に協力を要請したのだが、瞬が触れたくない事柄に、氷河は遠慮なく ずかずかと踏み込んできた。

「おまえが あいつに負い目を感じる必要はない。おまえは、子供の頃からつらい思いばかりしてきた。つらいことも悲しいことも苦しいことも、何も知らずに生きてきた あいつの方が、おまえより はるかに幸せだったかもしれないぞ」
「そんなことはないよ……」
幸せが どんなものであるのかを知っているくせに、幸せを知らないスキアのいるところで、なぜ氷河はそんなことを言うのか。
スキアの前で、『僕はスキアより ずっと幸せな人間だ』と言ってしまうわけにはいかず、瞬は唇を引き結んで、顔を俯かせた。

「つらいことばかりだったのに、おまえが穏やかに そう言ってしまえるのは、今 おまえが幸せだからなのだろうな」
スキアが自分の思いを語らず、そのため 彼の人となりや価値観が把握できていない紫龍としては、そういう客観的事実を口にして、瞬に助け船を出すことしかできなかったのだろう。
スキアを幸福と断じても、不幸と断じても、彼を傷付ける可能性がある。
「……」
紫龍の言を否定も肯定もしない瞬。
そんな瞬を見て、氷河は冷酷に言い放った。

「おまえが今 幸せなのは、おまえのせいではない。おまえの努力のせいではあるが、おまえに非はない。おまえが自分の幸せを負い目に思うことはない」
瞬に向かって そう言っているはずなのに、氷河の視線は瞬のクローンの上に据えられていた。
氷河が あえてスキアのいるところで そんなことに言及したのは、スキアに釘を刺すためだったのだろう。
瞬が瞬であること――不遇ではあっても、自分の意思で自分の生を生き、喜びや感動、悲しみや つらさ、苦しさを、己れの心と身体で味わうことができたのは、瞬の非ではなく、瞬が責任を負うようなことでもない。
もちろん スキアが瞬のクローンである事実に対しても、瞬は いかなる非もなく、責任も負わない。
だから 瞬を責めるなと、氷河はスキアを牽制したかったのだ。

スキアは、情動障害の気があるのではないかと思うほど 感情の起伏が少ない人間だったが、決して愚鈍ではない。
むしろ聡明でさえあるようで、彼は氷河の冷酷の意図を 正確に理解したようだった。
相変わらず無言で、だが、スキアは氷河の真意を理解した目をした。

瞬に非はない。
瞬を責めるな。
氷河の主張は 間違っていない。
その主張は、確かに正しい。
だが、それが瞬のせいではないように、スキアの現在ある境遇は、スキアのせいでもないのだ。

「氷河」
『スキアに優しくして』。
言葉にはせず、視線で――泣きそうな目で、瞬が氷河に訴える。
「そいつは、俺が好きになった おまえじゃないし、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間でもない」
氷河の答えは、いつになくクールだった。






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