「ちょっと出歩いていただけだったんだろう。おまえらは 心配しすぎなんだ。ちょっと姿が見えないからって、2、3歳の子供じゃあるまいし」 ラウンジの いつもの席―― センターテーブルを囲むソファではなく、庭を眺めることのできる場所に置かれているスワンチェア――に スキアの姿を認めた氷河は、星矢たちの過保護を非難するように、彼のあとに続いてラウンジに入ろうとしていた仲間たちの方を振り返ったのである。 それと ほぼ同時に、スキアが掛けていた椅子から立ち上がる。 そして、つかつかと氷河の前まで歩いてきたスキアは 両腕をいっぱいにのばし、その腕を氷河の首に絡みつけた。 更に、氷河の頭を引き寄せるようにして、氷河の唇に自分の唇を押しつける。 「…… !!!!!! 」 氷河が小宇宙を燃やしたわけではなかったのに、世界のすべてが一瞬で凍りついた。 ラウンジの空気も、氷河の仲間たちの心身も、音も時間も、スキアに唇を奪われた白鳥座の聖闘士自身も。 その場で凍りついていなかったのは、スキアただ一人だけだったろう。 我が身に何が起きたのかが わからず 全身を強張らせていた氷河の硬直は、やがて 何とか解けたようだった。 手足の自由は取り戻せても、脳にまわす酸素は足りていなかったのか、酸素不足の金魚のように、氷河が口をぱくぱくさせる。 スキアは、たまたま 庭の散策を思いつき、偶然 その場面を目撃してしまっただけだったのか、あるいは、氷河か瞬を探して庭に出て、その場面を盗み見ることになってしまったのか。 いずれにしても、スキアが、庭で見た瞬の行動を真似て、それをしたのだということだけは、確かだった。 「なにーっ !? 」 やっと身体と脳が 平生の力を回復したらしい。氷河が 今更、驚愕の雄叫びをラウンジ内に響かせる。 続いて、星矢の大爆笑。 瞬と紫龍は、氷河と同じレベルでスキアの行動の意味がわかっていなかったのだが、星矢は野生の勘で(?)、それがわかってしまったらしい。 わかったといっても、 「俺、やっと、スキアがわかってきたぜ! いい奴なのか悪い奴なのかが わかんなくて、どう接すべきか 困ってたんだけど、つまり、こいつは いい奴でも悪い奴でもないんだな。何にも知らなくて、何にも わかってないんだ」 ――程度の理解だったが。 「何も書かれていない板――タブララサというやつか」 その程度の理解で済ませていいのなら、紫龍も理解はできていた。 紫龍はただ、スキア自身も気付いていないヒュプノスの何らかの細工が スキアの中にあるのではないかと、それを案じていたのだ。 その心配がないのなら、紫龍とて、瞬と同じ顔をした人間を疑いたくはなかった。 案じるより 安んじる、疑うより信じるタイプの人間である星矢は、そんな疑いのせいではなく、スキアが意思表示というものをしないこと、行動しないことに、自らの対応を迷わされていたらしい。 食事も着替えも入浴も自分でできる。 知能に問題はない。 携帯電話の使い方も、教えられると すぐに覚えた。 文字も読める。 言葉を聞いて 内容を理解し、話すこともできる――と、星矢は沙織から聞いていた。 にもかかわらず、表情でも、言葉を用いてでも、喜怒哀楽を表に出すことなく、首を縦に振るか横に振る程度の意思表示をしかしないスキア。 星矢は、 「『氷河の阿呆』でも『氷河の馬鹿たれ』でも いいからさ、もっと何か言ってくれよ」 という気持ちでいたらしい。 “いい奴”でも“悪い奴”でもないスキアを、星矢は“面白い奴”にカテゴライズしたようだった。 一方、氷河は、迷いから抜け出た星矢とは逆に、今が混乱のクライマックスである。 瞬の前で、瞬以外の人間に唇を奪われてしまった自分の間抜け振りに、氷河は腹を立てているようだった。 だが、その怒りを どう表現すべきか、むしろ抑え隠すべきなのかを、咄嗟に判断決断できない。 抑え隠していたのでは、怒りを発散して消し去ることができず、だが、あからさまに激怒するのも 大人げない――瞬に大人げないと思われたくない。 そのあたりの感情や思考の調整ができず、氷河は結局 奇妙に顔を歪めることしかできずにいた。 そんな氷河に、迷いから解放された星矢が、屈託なく言い放つ。 「おまえ、顔が引きつってるぞ。スキアは、氷河に優しくしてもらいたんだろ。減るものじゃないんだから、キスくらい、いいじゃん。もっとすごいこと要求されて、精を搾り取られるわけでもないんだし」 「キスくらいとは何だ。キスくらいとは! 俺のキスは 瞬のためにだけあるんだ。瞬以外の人間が俺に そんなことをするのは、瞬のためにあるものを盗むのと同じだ。つまり、盗人だ! 泥棒だ!」 「へーへー。瞬も同じ認識でいてくれたらいいな」 星矢に軽く いなされてしまった氷河が、むっとした顔になる。 氷河の機嫌の良し悪しなど どうでもいい星矢は、氷河の不機嫌を、更に軽やかに無視してのけた。 「で? スキアは氷河が好きだから、氷河にキスするのか? それとも、瞬が好きだから 瞬の真似をするのか? どっちなんだ?」 星矢が尋ねても、スキアは答えなかった。 星矢に問われたことの答えを探しているふうではなく、氷河に泥棒呼ばわりされたことにショックを受けているようでもない。 知能に問題がなく、言葉も理解しているのに、この無反応、この無表情は異様である。 スキアが 彼の意思で無反応無表情を貫いているのなら、それはなぜなのか。 “面白い奴”に分類した途端、全く面白味が見えない奴になってしまったスキアに、星矢は 両の肩をすくめた。 「氷河を好きなパターン、瞬を好きなパターンの他に、瞬に なり代わりたいと思っているパターンもあるぞ」 紫龍が、星矢に 第三のパターンを提示したのは、無反応無表情のスキアの前で、次のアクションに移れないでいる星矢を見兼ねて 救いの手を差しのべた――のではなかっただろう。 むしろ、スキアの真意を探るべく、鎌をかけたのだ。 残念ながら、スキアは無反応無表情を維持継続。 紫龍のその言葉に 衝撃を受け、頬を青ざめさせたのは、スキアではなく瞬だった。 |