「神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の実験を知っている?」 スキアのことで助言を求めにいった瞬に、沙織は 質問で答えてきた。 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世――知識欲旺盛で、“中世で 最も進歩的な君主”、“王座上の最初の近代人”と異名を取り、政治でも科学の分野でも 逸話の多い人物である。 ――ということは、瞬も知っていた。 知識欲旺盛なことで名を馳せていた皇帝は、自らの知識欲を満たすために 様々な実験を行なったに違いないが、彼が行なった多くの実験の中で 瞬が知っている実験は、数十人の乳幼児を使って行なわれた実験だけだった。 おそらく、それがフリードリヒ2世の行なった実験の中で最も有名な実験だろう――それだけが有名な実験である。 「赤ちゃんの……?」 反問の形で答えた瞬に、沙織が悲しげな首肯を返してくる。 「そう。言葉を教わらないで育った子供が話す言葉は何なのかを確かめようとして行われた実験よ。――生まれたばかりの赤ちゃんを50人 集めて、彼はその実験を始めた。母親から引き離し、外界との接触を持てないように 実験用の部屋に赤ちゃんたちを閉じ込めて、子供の世話をする者たちには 厳しいルールを課した。赤ちゃんたちの目を見てはいけない。笑いかけてはいけない。語りかけてはいけない。赤ちゃんたちとの触れ合いは一切禁止。つまり、生きるのに必要な世話はすべてするけれど、愛情を与えてはならない――と命じた。その結果、赤ちゃんたちは全員が1歳の誕生日を迎えることなく死んでしまったのだとか」 言葉、笑顔、触れ合い――愛情を示す行為を すべて禁じられ、愛情を知る機会を奪われた赤ん坊たちは、命を繋ぐのに必要な栄養と衣服と住まいを与えられていたにもかかわらず、ただの一人も1年と生きていられなかったのだ。 それは、人間の愛を何よりも大切なものと思うアテナには 非常に納得のいく実験結果なのだろうが、人間の愛を何よりも大切なものと思うアテナには、決して 許すことのできない実験でもあるに違いなかった。 800年も昔に行われた実験結果を語る沙織の瞳は、痛ましげに悲しげに揺れていた。 「スキアも似たようなものよ。彼は、命を永らえるのに十分な世話はしてもらえたのでしょうし、ハーデスの魂の器であることや、あなたの予備的存在だということを理解させるために、言葉も教えられたのでしょう。けれど、ただそれだけ。彼は、誰からも愛情を与えらなかった。彼が死ぬことがなかったのは、彼の生きている場所が既に冥界だったからにすぎない。彼は生まれた時から、永遠の楽園エリシオンにいた。スキアは、死ななかったのではなく、愛の欠乏のために死んでいった赤ちゃんのように死ぬことが許されなかっただけなのよ」 「ええ……」 愛を知らないまま 死んでしまった赤ん坊たちと、愛を知らないまま 生きることを強いられたスキアとでは、どちらが“まし”なのだろう。 すべての可能性を失う“死”に比べれば、未来と可能性が残っている“生”の方が まだまし、生きているスキアの方がまし――なのだろうか。 言葉を解するということは、思索できるということである。 スキアは、エリシオンで、誰からも愛情を示されることのないまま、自分という存在が何であるのかを 考えたことがあるに違いない。 戦わなくて済む分、彼には 思索するための時間は余るほどあったのだから。 そんなふうに、余るほどにあった長い時間の中に、スキアが自分を幸福な人間だと思う時間は、ただの一瞬でもあったのだろうか――。 「ジュデッカで あなたの肉体を御せなくなったハーデスは、自身の肉体を置いてあるエリシオンに向かった。そこで、ヒュプノスから あなたの肉体のスペアがあることを知らされた。アテナの聖闘士などになってしまった あなたより、ずっと清らかなあなただと、ヒュプノスはハーデスに奏上したそうよ。けれど、ハーデスは、『汚れを知らない者が、どうやって清らかな魂を育めるのか』と言って、スキアには一顧だにしなかった」 と、スキアは沙織に語ったのだそうだった。 地上世界に連れてこられてからずっと口をきこうとしなかったスキアに、催眠療法で 記憶を探るようなことはしたくないので、自発的に話してほしいと頼んだところ、彼は やっと重い口を開いてくれたらしい。 「ひどいことを……」 たとえ聖域や地上世界に敵意や害意を抱いていなくても、それは進んで他者に語りたいことではない。 “自発的に”それを他者に語ることは、スキアには つらく悲しいことだったろう。 ハーデスとヒュプノス――冥界の神々には、自分たちがスキアを虐げたという自覚があったのだろうか。 勝手にスキアという存在を作っておきながら、スキアには どんな非もないというのに、その存在を否定する。 こんな理不尽なことがあるだろうか。 神になら、そんな非道も許されるのだろうか。 だとしても――だとしたら尚更――人間には抵抗する権利が与えられるべきである。 「スキアは、堅い絆で結ばれた仲間たちどころか、友だち一人いない孤独の中で、人を信じ愛する幸福も、人に信じられ愛される喜びも知らずに生きてきて、その上、そんな つらい思いを味わわされたんですね……。僕のせいで」 「あなたのせいではないわ。あなたに非はないし、あなたのミスでもない。あなたの努力で どうにかなったことでもない。あなたのせいではないのよ」 「でも、僕の存在が彼を不幸にした――僕という存在が 彼の存在意義を否定し、彼を……無にしたんです」 「自分を責めすぎるのはよくないわ。自分の影響力を過大評価するのは傲慢というものよ。そんなふうに考えるのは やめなさい。あなたのせいではありません」 沙織の言うことは わかる。 それが正しい見方だということも、瞬には わかっていた。 だが。 「でも、それ以上に、スキアのせいでもありません。誰かのせいでないと、スキアは つらい。僕のせいでないと、きっと スキアは つらい思いをします。僕のせいなら、僕は、自分の罪を償うために スキアの幸せを願う資格も得られる。僕は、スキアが僕のせいで負わされた苦しみを忘れさせてあげたいんです。スキアに 幸せになってほしい。幸せがどういうものなのか、実感できるようになってほしい。でも、スキアは何も話してくれないし、感情らしい感情も ほとんど見せてくれなくて――。僕は、スキアに どういう接し方をすればいいのかわからないんです……」 「自分に非があれば、罪を償う権利や義務を手に入れられるというわけ? 面白い考え方だこと。でも、そうね。贖罪という大義名分がないと、慎み深さが売りの あなたは スキアに強く出られそうにないわね。『放っておいてくれ』と言われたら、気後れして 近付けない――」 微苦笑を浮かべて そう言う沙織に、瞬は 一応、 「僕は、そこまで気弱じゃありません」 と反論を試みたのである。 瞬の反論は、再度 沙織に一笑に付されてしまったが。 もちろん 沙織は、笑うだけではなく、瞬にアドバイスもしてくれた。 「スキアには、いっそ、赤ちゃんを育てるつもりで接すればいいのかもしれないわ。幸せというのは、自分が誰かを愛している時に実感できるものでしょう。愛している人が幸せでいてくれると確信できる時、人は自分を幸せだと思う。スキアは、でも、愛し方を知らないの。愛されたことがないから。『人に愛されたことのない人間は、人を愛することはできない』と言うつもりはないけれど、実際に 人に愛された経験を持たない人間には、“愛している”という気持ちが どんなもので、“愛する”という行為がどんなものであるかを、実感し 実行することは、とても難しいことだろうと、私は思うのよ」 「はい」 その考えには、瞬も同感だった。 愛というものは、人から人に伝えられていくものだと、瞬も思う。 「スキアに幸せになってほしいのなら、まず、彼に 愛し方を覚えてもらわなければならない。そのために、スキアは 愛される経験をしなければならない。人に愛され、人の愛し方を知ったスキアは、もう 幸福になるしかないでしょう。瞬。あなた、氷河が焼きもちを焼くくらい、スキアを愛してあげなさい」 どうして ここで氷河の焼きもちを誘発する必要があるのだと問うと、必ず墓穴を掘ることになる。 それがわかっているので、その点には触れずに、瞬は沙織に頷いた。 「はい。沙織さんの ご助言通り、彼はもう一人ぽっちじゃないし、彼の幸せを願っている人が大勢いるんだということを、スキアに知ってもらうところから始めてみます」 「あら……」 瞬が墓穴を掘り始めなかったことが 期待外れだったらしく、沙織は少し残念そうに 唇をとがらせた。 |