スキアが城戸邸に行き、二ヶ月ほどが経った頃。
寒さが苦手なスキアを、春になったら もっと外に連れ出しやすくなる。
エリシオンでは見ることがなかった梅や桜、藤の花を見せてやりたい。
いっそ、イチゴ狩りもいいかもしれない。
瞬は 早くも春の行楽計画の立案作業に取りかかっていた。

瞬は、いつのまにか、自分がスキアを不幸にしたという負い目を忘れ、贖罪という大義名分をも忘れ、スキアを 愛と幸福を知る人間に育てるという義務感――親の義務感のようなものに 突き動かされるようになっていた。
スキアが人間らしい表情や言葉を生むことが、そんなスキアを見ていられることが、瞬は嬉しくてならなかった。

「スキアは、白い花 紅色の花とピンク色の花と紫色の花だと、どの花が好きかな? それとも、食べられる実の生る花の方がいいかな?」
それぞれの花の名所のPR動画も あるのだが、それを見てしまうと実際に現地に行った際の感激が薄れてしまうだろうと、それを案じて、瞬は あえて紙のパンフレットをラウンジのテーブルに広げていた。
全部で10部ほどあるだろうか。
桜の花の名所のパンフレットがいちばん多い。
それらを ひと渡り眺めたスキアは、どれか一つを選ぶことができなかったのか、
「ぜんぶ」
と、瞬に答えてきた。

「全部?」
パンフレットの花見スポットは、電車での移動が可能な関東地区にあるものだけだったので、当然、花の時季が重なっていた。
全部を見てまわるには、かなりハードなスケジュールを組む必要が生じるだろう。
だが、スキアが全部 見たいと言っているのだ。
瞬は、その望みを叶えてやりたかった。
「そうだね。同じ桜の木でも、種類は いろいろあるし、場所によって見え方も違うから、どこかを選べないのなら、全部 行ってみるのもいいかもしれな――」
「いいわけないだろう! 瞬! こいつを甘やかすのも いい加減にしろよ! おまえは、この俺をすら、そこまで甘やかしてくれたことはないぞ!」

『赤ん坊を育てている者は、赤ん坊の望みを すべて叶えてやらなければならない』という不文律を知らないのか、あるいは 堪忍袋の緒が切れたのか、ついに 氷河が爆発する。
しかし、その爆発物は 星矢と紫龍によって、速やかに処理された。
「瞬とスキアが、おまえを置いてけぼりにして、二人だけで出掛けてるってんなら ともかく、瞬たちの外出に、おまえは毎回 ついていってるんだから、特段 不都合もないだろ」
「おまえと瞬とスキアが連れ立って歩いている図は、どう見ても両手に花だ。誰もが おまえを羨んでいるだろう。まあ、確かに、1シーズンに10ヶ所で花見というのは強行軍すぎるから、考え直した方がいいだろうが。桜の花の時季は短い。無理をして、今年のうちに すべて見てまわることもないだろう。桜は 来年も咲くぞ、瞬」
「うん。でも、スキアが見たいのなら、見せてあげたいんだ。桜の花は来年も咲くけど、それは 今年の桜とは違う桜でしょう?」
「一期一会というやつか。なるほど」
それで得心したらしい紫龍は、浅く ゆっくり頷いた。
「それなら、氷河の文句は無視していい。どうせ氷河は、文句を言いつつ、おまえのあとをついていく」

スキアは、自分が それほど ひどい我儘を言ったつもりはなかったらしい。
スキアは、どの花も綺麗で除外できず、どれか一つを選ぶのを諦めただけだったのだろう。
氷河の剣幕に恐れを成して、腰が引けているようだったスキアは、瞬を見、氷河を見、星矢と紫龍を見、再度 視線を瞬の上に戻すと、小さな声で、
「ごめんなさい」
と言った。
それから、
「ありがとう」
と続ける。

「え……」
『ごめんなさい』と『ありがとう』
それは、瞬が初めて聞く、スキアの謝罪と感謝の言葉だった。
赤ん坊なら、決して口にしない言葉である。
その言葉を使えるようになった時、人は 自己形成を成し遂げたと言っていいだろう。
赤ん坊ではなくなったスキアが、彼を不幸にした人間に――彼への罪を償おうとしている人間に、逆に『ごめんなさい』と『ありがとう』を言ってくれたのだ。
驚いて――その言葉が あまりに思いがけなくて――瞬の瞳からは、涙の滴が一粒 零れ落ちた。
瞬が初めて聞いた、スキアの『ごめんなさい』と『ありがとう』。
それは、スキアに、“初めて 涙を見る”という経験をもたらした。

瞬の涙を見たスキアが、
「それ、なに」
と、瞬の瞼の上に少し残っている透き通った水を指差して、瞬に問うてくる。
手の甲で 涙の跡を拭い去ろうとしていた瞬は、その手を 反射的に止めた。
自分と同じ遺伝子を持っているスキアは、きっと涙もろいはず。
今より情緒が豊かになったスキアが、いつか涙を流した時、それが何であるのかを知らずにいると、病気の類と勘違いをして悩むことになるかもしれない。
これが何であるのかを、スキアに教えておかなければならない。
瞬は、そう思ったのである。

「これは 涙っていうの」
「なみだ?」
「うん。悲しい時や嬉しい時に、自然に目から あふれ出てくるものだよ。大好きな人のために」
「大好きな人のために?」
「嫌いな人のために涙を流す人はいないよ」
「……」

瞬は、スキアに『大好き』と言ったつもりだったのだが、はたして スキアに瞬の気持ちは通じたのか。
氷河は 瞬の意図をちゃんと理解して、その端正な顔を 思い切り不愉快そうに歪めた。



愛を知らずに生きてきたスキアは、少しずつ人間らしさを身につけているようだった。
それは、とりもなおさず、形のない“愛”というものを心身で感じることを、スキアが 日々 繰り返しているから。
そう、瞬は思っていた。
瞬の仲間たちも、そう思っていた。
一朝一夕とはいかないだろうが、数年後 スキアが成人する頃には、彼はおそらく 一般人と同レベルの情緒、知識、社会性、道徳性を備えた人間になり、エリシオンで失われた時間を取り戻すことができているだろうと、アテナの聖闘士たちは ほぼ確信していたのである。
実際、そうなっていただろう。
時が、そのまま、いつまでも穏やかに流れ続けていたならば。






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