瞬を瞬と意識するようになって、氷河は自分の周囲の人間たちを見ることを始めた。 瞬を瞬と意識するようになったために、瞬と瞬以外の人間を区別する必要が、氷河の中には生じてしまったのだ。 瞬が まめまめしく氷河の面倒をみるのは(みようとするのは)、『自分にもできることがある』と 瞬が思いたがっているからのようだった。 おそらく、“少し足りない”瞬は、知力だけでなく 体力や運動能力も 城戸邸に集められた他の子供たちに劣っていて、この訓練所では みそっかすなのだろう。 だからこそ、自分の存在意義を誇示したいのだ。 そうなのだろうと、氷河は察した。 瞬のように みそっかすではない瞬の兄や紫龍、星矢たちは、様子見で待機。 瞬が失敗したら 出てくるつもりでいるらしく、それまでは 口も手も出さないが、氷河と瞬から目を離さない――というスタンスでいるようだった。 やたらに まとわりついてくる瞬より、瞬にまとわりつかれている氷河を睨み続けている瞬の兄の視線の方が鬱陶しくて、氷河は、幾度も瞬を遠ざけようとしたのである。 “遠ざけようとした”といっても、ひたすら瞬を無視していただけだったのだが、どれほど無視されても、瞬は氷河から遠ざかろうとはしなかった。 “少し足りない”瞬は、無視されることの意味を理解できないらしい。もしくは、途轍もなく鈍感であるらしい。 無視しているだけでは、 鈍い瞬には こちらの意図は通じないのだと悟った氷河が、 「俺は 日本語がわからないんだから、日本語で言われても 意味がわからない! 俺に つきまとうな、うるさいっ!」 と日本語で 瞬を怒鳴ってしまったのは、彼が 城戸邸に来て2週間が経った頃。 氷河の大声に、瞬より先に一輝が反応を示した。 氷河が瞬を怒鳴りつけたのは、トレーニングジムの横にある休憩室。 室内には、これからサーキットトレーニングを始めるグループの子供10人と、サーキットトレーニングを終えたグループの子供10人がいた。 瞬を怒鳴りつける氷河の大声を聞くや否や、壁際に置かれているベンチの一つに座っていた一輝は 腰を上げようとした――ように、氷河には見えた。 そして、立ち上がりかけた一輝が 実際に立ち上がらなかったのは、氷河に怒鳴りつけられても 瞬が泣かなかったから――のようだった。 「でも、氷河は城戸邸に来たばかりで、わからないことだらけでしょう? それだと 困るでしょう? 僕も、ここに来た時、紫龍に いろいろ教えてもらったんだよ。星矢にも ちょっぴり教えてもらったよ」 「わからないことがあったとしても、それで 困るのは俺で、おまえじゃない。俺の世話を焼いたって、おまえには何の得もない。俺に構うなっ!」 “少し足りない”瞬は、大声で怒鳴りつけられれば、投げつけられた言葉の意味も考えず、ただ 攻撃者の剣幕に驚いて逃げていくだろうと、氷河は思っていた。 実際 瞬は、氷河の大音声に かなり驚き、怯えることもした。 しかし、瞬は逃げなかったのである。 逃げるどころか、瞬は、真正面から反論してきた。 しかも、ちゃんと氷河の言葉の意味を理解して。 もっとも、瞬の理解は、氷河の望む通りの理解ではなかったが。 「得なんかなくたっていいよ。だって、そうしなきゃ、氷河が困るでしょう?」 「俺が困ったって、おまえには関係ないだろう!」 「でも、僕たち、友だちでしょ」 「いつから そんなことになったんだ! 俺は おまえの友だちなんかじゃないし、おまえも俺の友だちなんかじゃない!」 「え……」 一般的な“友だち”の定義を、氷河は知らなかった。 そんなものは知らなかったが、一般的にも常識的にも、今日初めて 言葉の応酬をしたような二人が友だち同士であるはずがない。――というのが、氷河の認識だった。 だが、瞬の認識は 違ったらしい。 瞬の認識では、既に2週間も同じ屋根の下で暮らしている二人の子供は とても仲のいい(?)友だち同士だったらしい。 そして 瞬は、まさか その認識を真っ向から否定されることがあるなどは、毫も考えたことがなかったようだった。 完全に想定外。決して あり得ない事態に直面させられた瞬が、その場に 呆然と立ち尽くす。 やがて 瞬の瞳は涙で潤み始め、瞬の肩の向こうでは、瞬に全く似ていない瞬の兄が、今度こそ本格的に ウォーミングアップを始めた。 そこから 更に離れたところに立つ星矢と紫龍は、極めて無責任に 興味津々の目。 近景、中景、遠景を一度に確かめられるポジションで、氷河は 胸中で舌打ちをした。 何もかもが億劫で、いつも地味に静かに控え目にしていた自分が、なぜ こんな面倒に巻き込まれなければならないのか。 氷河は、どうにも合点がいかなかったのである。 すべての元凶である瞬は――しかし、瞬は泣かなかったのである。 今にも涙があふれ出そうなほど 瞳は潤んでいたが、瞬は、涙の滴を零すことはしなかった。 「紫龍と星矢も、何の得もないのに、僕に親切にしてくれたよ。そういうのを、友だちっていうでしょう?」 「そんなわけあるか。紫龍と星矢は、おまえが やたら可愛いから、親切にしとけば何か得があるかもしれないって思ってたんだろ。可愛いだけの馬鹿だと気付かず、誤解で親切にしちまっただけ」 「ぼ……僕の兄さんだって、何の得もないけど、いつも僕を庇って守ってくれるよ」 「それは、おまえが弟だからだろ」 肉親だから仕方なく、可愛いだけの馬鹿を庇い守るのだ。 そういう肉親たちを、氷河は シベリアで幾度も見たことがあった。 村人たちに迷惑ばかりかけている悪童を、“我が子だから”という理由で、『ウチの子は悪さなどしない』と言い張る母親。 酒に酔って暴れる父親がしでかした迷惑行為を、“父だから”という理由で、代わりに謝ってまわる娘。 肉親だから仕方がないのだ。 肉親だから、厄介者でしかなくても見捨てるわけにはいかない。 実例を幾つも知っているだけに 確信に満ちて、氷河は そう言ったのだが、『弟だから』は、瞬には納得できる答えではなかったらしい。 “少し足りない”瞬は、あろうことか、“弟だから仕方なく”瞬を庇い守っている一輝に、 「……兄さんは、僕が弟じゃなかったら、守ってくれないの……?」 と尋ねていったのである。 瞬は、兄が どんな答えを返してよこすと思っているのだろう。 どんな答えを期待しているのだろう。 兄に尋ねる瞬の眼差しは、少し不安げで、少し悲しそうだった。 暫時 考え込む素振りを見せた一輝の答えは、 「俺は、おまえが弟でなくても守るだろうな。その代わり、弟でも 嫌な奴だったら守らない。俺はただ、そうしたいから そうするんだ」 それは、瞬が期待していた通りの答えだったのだろうか。 兄の返事を聞いて、瞬は、ぱっと顔を明るく輝かせた。 そして、嬉しそうに、自信満々で宣言する。 「そうだよね! だから、僕がそうしたいなら、僕が氷河を守ってあげてもいいんだよね!」 「はあ !? 」 氷河は、彼の人生で かつて一度もあげたことのない素頓狂な奇声を、決して狭くない休憩室内に響かせた。 『僕が氷河を守ってあげる』 瞬の力強い宣言は、氷河には それほど衝撃的なものだったのである。 |