『ナターシャちゃん、あっち。あっちに小さな光が見えるでしょう? あの光のあるところに行って』 “マーマ”が指し示した光が見えなくなった。 光が消えてしまったのか、あるいは、ナターシャが光源に到達したために見えなくなってしまったのか。 ナターシャは 目覚めていた。 ナターシャの前には、滅びる前の世界があった。 滅びていない世界――世界は滅びていないのか。 それとも この世界は、これまで ナターシャがパパとマーマと暮らしていた世界(その世界は滅びてしまった)とは違う世界なのだろうか。 振り返っても、“滅びた世界”は もう見えない。 今 ナターシャが見ている“滅びていない世界”は、だが、光のある世界ではなかった。 日本の東京である。 遠くに小さく スカイツリーも見える。 だが、何かが違う。ような気がする。 そもそも、なぜ 自分がここにいるのかがわからない。 パパとマーマがいない――光がない。 ここは、“マーマ”が『あそこに行きなさい』と言った場所とは違う場所なのだろうか。 自分は どこかで道を間違えてしまったのだろうか。 だから 自分は、こんなにも“何かが違う”と感じてしまうのか。 光が丘でも、押上でもない。 ビルとビルの間に見えるスカイツリーは遠い(光が丘からはスカイツリーは見えなかったし、押上から見えるスカイツリーはもっと大きかった)。 星と夜が 空を覆っている。 パパとマーマがいないから、この世界は夜なのだろうか。 この世界は、滅びてはいない。 だが、パパとマーマのいない夜の世界だった。 「パパ……マーマ……」 滅びていなくても、壊れていなくても、パパとマーマのいない世界は、悲しく寂しい。 夜のビル街。 人がいないわけではない。 むしろ、大勢 歩いている。 だが、通りを行き交う多くの通行人たちは影法師のように、モノクロの幻影のように、存在感がなかった。 何人もの通行人とぶつかったのに、ナターシャは どんな衝撃も感じなかった。 光を探して、あるいは パパとマーマを探して、ナターシャは 壊れていない夜の街を とぼとぼと歩き続けたのである。 目指す光が見えないと、自分が進んでいる方向が正しいかどうかも判断できない――自信を持てない。 ナターシャの姿が見えていないらしい、影法師のような人々。 ナターシャは、自分が 音を消した動画の中に紛れ込んでしまったような錯覚を覚えていた。 自分は小人になって、モニターに映っている どこかの街の通りを歩いているのだ。 だから、人にぶつかっても痛くないし、転ぶこともないのだと。 だとしたら――そうでなかったとしても、この場所は 絶対に、マーマが『あの光のあるところに行って』と指し示してくれた場所ではない。 『そこできっと、ナターシャちゃんは幸せになれるから』と、マーマは言っていた。 こんなに寂しくて悲しい場所が、マーマの言っていた場所のはずがない。 ならば 一刻も早く ここを出て、マーマが行くように言った場所を探さなければならない。 ナターシャが そう考えて、空を見上げた時。 間違って入り込んでしまった世界の 存在感のない人々の間から――それとも、全く違うところから?――ナターシャの上に低い声が降ってきた。 「何だ? 貴様、人間か?」 低い海鳴りのような声。 それは、身体の大きい大人の男の人が作っているような声だった。 だが、ナターシャに『何だ』と尋ねてくる この声の主は――この声の主こそ、人間なのだろうか? 姿は見えない。 姿は見えないのに、影法師のような通行人たちとは違って、その声の主が この世界に実際に“いる”ことだけは、ナターシャには わかったのである。 ナターシャには、それが感じ取れた。 「普通の人間のガキにしちゃ、妙な気配だな。てめぇは 生きてる生身の人間か? 妙なガキ……それとも、その姿は 敵を油断させるためのカモフラージュか? この世界のヤツか? 異世界から呼ばれてきたのか?」 得体の知れない巨大な黒い何か。 人間ではない。 少なくとも、尋常の人間ではない。 言葉使いは乱暴で、お行儀の悪い子のよう。 きっと パパが ここにいたら、嫌そうな顔をして、『絶対に近寄るな』と言うような人(?)。 何より、その声には、隠しようのない凄まじい邪悪の響きがあった。 このお化けの側にいるのは危険。 本能的に そう感じて、ナターシャは 彼(?)から逃げ出そうとした。 駆け出した途端、 「てぇめぇ、何モンだっ!」 巨大な黒い手(?)が、ナターシャの身体を掴み上げる。 恐い。 ナターシャは悲鳴を上げようとしたのだが、そうすることはナターシャにはできなかった。 そうする前に、ナターシャは、得体の知れない黒い何かに、首を引きちぎられてしまったのだ。 「こいつはいい。こいつなら、聖闘士でも剣闘士でも油断するだろうな」 海鳴りのように低い声。 ナターシャは、その声の主が 自分の身体を人形遊びの人形のように扱い始めるのを 意識していた――意識することだけはできた。 他には何も――ナターシャは、自分の身体を痛めつけられても、痛みを感じることさえできなかったのである。 ナターシャは、死んだわけではないようだった。 目は見え、耳も聞こえる。 身体の首から下は消えたが、どこから持ってきたものなのか、別の人間の手足や胴体が 今のナターシャの身体を形成していた。 腕の一部は、一度 引きちぎったナターシャの腕を再度 つなげたもののようだった。 ナターシャの身体は 元から つぎはぎだらけだったので、ナターシャは そのことは あまり気にならなかった。 問題は、ナターシャが その身体を、自分の思う通りに動かせないことだった。 その身体を動かしているのは、あの海鳴りめいた声の主。 ナターシャは、声を出す機能を海鳴りの声の主に奪われて、もはやナターシャという一人の人間として生きているとは言えない状況に陥っていた。 身体だけでなく心も、あの声の主に押さえつけられて――ナターシャは もうナターシャではなくなっていた。 パパ、マーマ、ごめんなさい。 パパは『必ず 生き延びろ』って言ってたのに、ナターシャは 誰かに殺されちゃっタ。 パパ、マーマ、ごめんなさい。 ナターシャは、きっと道を間違えたんダ。 どうすれば 間違ってない場所に行けるのか、ナターシャには わからないヨ。 ナターシャはもう、マーマが言ってた光を見付けることはできないノ……。 パパ、マーマ、ごめんなさい……。 ナターシャのいる世界は、また暗くなった。 ナターシャは目を閉じたわけではなかったのに。 ナターシャは、自分の意思で 自分の目を閉じることさえできなくなっていた。 ナターシャの心は押しつぶされている。 だが、完全に消されてはいない。 だから、ナターシャは苦しかった。 誰かがナターシャの目や耳を使って、ひどいことをしているのだ。 パパやマーマが知ったら、絶対に許してくれないような、とても ひどいこと。 このことを パパやマーマが知ったら、パパやマーマは心の底から悲しむだろう。 悲しんで、凍った海より冷たい色になってしまったパパの瞳。 悲しんで、涙が止まらなくなってしまったマーマの瞳。 悲しむ二人の様子を想像するだけで、ナターシャの胸は きりきりと痛んだ。 その胸はナターシャのものではなかったのだが、痛みを感じているのはナターシャだった。 その身体を動かしているのはワダツミで、ナターシャ自身ではなかったのだが、ナターシャの胸は 確かに痛みを感じていた。 その胸のもともとの持ち主も、ひどいことをしている自分を悲しんでいたのかもしれない。 こんな思いをするくらいなら、心も死んでしまいたいと、冷たく悲しい闇の中で、ナターシャは幾度も叫んだのである。 『ナターシャちゃん、あっち。あっちに小さな光が見えるでしょう? あの光のあるところに行って。そこできっと、ナターシャちゃんは幸せになれるから』 マーマに言われた通りに“光”を目指して歩いていたつもりだったのに、間違った場所に来てしまった。 だから こんなことになってしまったのだと、ナターシャは思った。 『そこできっと、ナターシャちゃんは幸せになれるから』 そう言われて、この世界に来たのに パパ、マーマ、ごめんなさい。 ナターシャは、行く場所を間違えちゃっタ。 パパ、マーマ、ナターシャ、ここから動けないノ。 ナターシャは恐いヨ。 とっても恐い。 デモ、ナターシャ、恐いヨリ悲しいノ。 悲しいヨリ寂しいノ。 ナターシャ、一人ぽっちダヨ。 側に誰もいないヨ。 パパ、マーマ。 パパとマーマがいないと、一人が恐くて、悲しくて、寂しくて、ナターシャ、心が壊れそうダヨ! どれほど泣き叫んでも、どれほど 救いの手、許しの手を求めても、答えを得られないことを、ナターシャは知っていた。 パパとマーマは ものすごく大きな力を持った悪者に、ものすごく大きな力のせいで、ずたずたにされてしまった。 あの光景は、まるで悪夢のようだったが、“(悪)夢のよう”なのは、それが夢ではなく現実だからである。 それでも ナターシャは、泣き叫ばずにはいられなかったし、救いの手、許しの手を求めずにもいられなかった――求め続けた。 パパが いつも、『信じて貫けば、夢は必ず叶う』と言っていたから。 『そうして、俺は瞬とナターシャに会えたんだからな』と、嬉しそうに言っていたから。 諦めさえしなければ、夢は消えない。 信じるのを やめなければ、それは永遠に真実で、嘘にはならない。 ナターシャには、パパとマーマの愛を諦めることも、疑うこともできなかった。 だから、叫び続けた。求め続けた。 やがて、諦めずに信じ続けたナターシャの許に、答えが届けられる時が来た。 |