都内有数の桜の名所、Cが淵。 堀の幅67メートル。水深1メートル。全長1キロ。 そこは普通に川だった。 堀の両岸にある土手は、50~60度ほどの傾斜がある。 傾斜の きつい土手には 子供は足を踏み入れないように。 落ちているゴミは、壜、缶、紙屑ごとに袋を用意してあるので、きちんと分別して収集。 奉仕活動の管理責任者からの注意事項に、子供たちは、 「はーい」 と、返事だけは素直だった。 返事だけは いい子のお返事をして、できるだけ 大人たちの目が届かないところに 蜘蛛の子が散っていくように散っていく。 他のメンバーの邪魔にならないところで、何のための外出なのか わからず ぼうっとしている氷河の付き添いをしていると 兄には言って、瞬は、人通りの多い田安門橋から離れた場所に 氷河の手を引いて連れていった。 氷河を土手の上に座らせて、自分は斜面を水際まで 下りていく。 魚が泳いでいる姿を見て取れるほど 水は澄んでいた。 が、堀の水が薄墨を溶かしたような色なのは、水温が低いからに違いない。 それでも 氷は張っていないのだから、飛び込んでも身体が凍りつくことはないだろう。 『大丈夫、大丈夫』と 自分に言い聞かせ、瞬が堀の中に飛び込もうとした時だった。 向かいの岸の側でボートに乗っていた女性が、ふいにボートの外に身を乗り出したかと思うと、そのまま 頭から堀に落ちてしまったのは。 「えっ !? 」 ボートから1メートルほど離れた水面に、白い紙片が浮かんでいる。 ボートの外に落とした書類を拾おうとして、慌てて手を水面にのばし、その際、重心を見失って、彼女は水に落ちてしまった――らしい。 堀の ほぼ中央。 瞬のいる岸からは20メートルほど。 堀の深さは せいぜいプールほどのはずなので、溺れ死ぬことは まずない。 とはいえ、堀の水の下は敵の侵入を防ぐための泥。 プールとは違って、歩くことは容易ではない。 たとえ溺れることはなくても、水温は低い。 放ってはおけなかった。 「氷河! 氷河! 助けて、氷河、助けてあげて!」 土手の上にいる氷河に向かって、瞬は叫んだ。 叫ぶだけは叫んでみた。 城戸邸から連れ出されて、ここまで来てはいたが、氷河は ずっと土手の上でぼうっと水面を眺めているだけだった。 兄や星矢たちは、人通りが多くてゴミも多い田安門橋の方にいて、こちらの異変には気付いていない。 氷河は、おそらく動かないだろう。 あの女性が堀に落ちたのは、自分が無茶な計画を立てたせいかもしれない。 よそのマーマがピンチに陥ってくれればいいなどと、ひどいことを一瞬でも考えた自分に、神様が罰を与えたのだ。 きっと そうなのに違いない。 瞬は、そう考えたわけではなかった。 考えたのではなく、感じたのだ。 一瞬にも満たない短い時間に そう感じ、瞬は堀に飛び込んだ。 兄や星矢や紫龍、体力・運動能力に優れたメンバーと いつも一緒にいるせいで、彼等と比較され、みそっかす扱いされている瞬だったが、人を傷付けずに済むことは得意だった。 走ることも、泳ぐことも、跳ぶことも、兄たちには敵わないが、年上の檄や蛮にも負けない。 実際、プールでなく堀でも、瞬は問題なく泳ぐことができたのである。 だが、思っていた以上に堀の水が冷たく、ほどなく 瞬の手足の動きは 鈍ってきた。 水に包まれた途端に急速に冷えていく身体が、まるで自分の身体ではないように感じられる。 ボートから落ちた女性も、こういう状態になっているのだろうか。 もう少しで手が届くところまで来ているのに、瞬は彼女をボートの上に助けてあげられるだけの力を出せる気がしなかった。 僕は死ぬのかもしれない。 と、瞬は考えたわけではない。 考えたのではなく、感じただけ。 氷河のマーマと同じように、このまま僕は死んでしまうのかもしれない。 どんな感情もなく、瞬は そう感じただけだった。 感情を生む余裕はなかったのだ。 ただ、『兄さん、ごめんなさい』という思いが胸をよぎり――次の瞬間、途轍もなく大きな声が 瞬の頭の中に響き渡った。 「パパ! マーマを助けてっ!」 頭の中に響いた、強くて偉い神様の お使いの女の子の大声。 瞬に聞こえたナターシャの声が、氷河にも聞こえたのか、氷河の意識が怪訝そうに外界に注意を向けたのが、瞬にはわかった。 そして、もう一つの声。 ナターシャの――小さな女の子の声ではない、大人の女の人の声。 「氷河! 助けてあげて。瞬ちゃんを、もう一人のマーマを」 優しい声、初めて接するのに懐かしく感じる声。 その声が誰の声なのか、瞬には すぐにわかった。 「マーマ!」 と 氷河が叫ぶ前に、瞬には わかっていた。 一瞬のためらいもなく、氷河は堀に飛び込んだ。 瞬の手足は 堀に飛び込むと すぐに動かなくなったのに、氷河は まるで、水温調節された屋内プールを泳いでいるかのように――その動きが鈍ることはなかった。 ボートから落ちた女性は、立とうと思えば立てなくもない場所で 泳ごうとして もがいていた。 その女性の姉妹なのか友だちなのか、ボートには もう一人の女性が乗っていて、溺れかけている女性の方にオールを伸ばし、掴まるように叫んでいる。 「オールを振り回すな!」 救出には むしろそのオールが邪魔。 ボートの中の女性に、氷河が水中から命じる。 氷河は、溺れている女性を引っ張るようにしてボートの脇まで運び、その女性の身体を 水の中から ボートの中に押し上げようとした。 ボート上の女性がオールではなく自分の手で、濡れ鼠の女性の身体をボートの中に引き上げる。 氷河は 瞬もボートの上に押しあげ、瞬の方は自力でボートの上に這い上がった。 「氷河……!」 瞬がボートの上から差しのべた手を、 「俺まで乗ったら、重量オーバーになる」 氷河は、驚くほど冷静な声で 遠慮した。 ボートの上の二人の女性は、漕ぎ手として使い物になりそうになかったので、瞬がボートを漕ごうとしたのだが、手にも足にも力が入らない。 ボートを桟橋のあるボート乗り場まで押して(泳いで!)運んでくれたのは、氷河だった。 氷河は、瞬を助けてくれた。 ボート小屋に着くと、ずぶ濡れの客と子供たちに慌てて、管理人は救急車を呼んだ――らしい。 辰巳に怒られるのが恐いので、瞬は そこから逃げようとしたのだが、あいにく 動けると思っていた身体が動かなかった。 水の中にいた時より、出てからの方が身体が冷えてきて、瞬は歯の根が合わなくなっていた。 前日から続いていた緊張が解けたせいか、猛烈に眠い。 隣りで平気な顔をしている氷河に、 「氷河、ありがとう」 と言ったつもりだったのだが、それは声になったのかどうか――氷河に聞こえたのかどうか。 だが、きっとこれで、氷河には見込みがあると、辰巳は思い直すはず。 自分の力を自覚した氷河は 元気を取り戻し――取り戻さなくても、もう処分されることはないだろう。 「きっと、もう大丈夫」 安堵の気持ちが、瞬を眠りの中に ゆったりと沈み込ませた。 |