親政開始にあたって、氷河は考えたのである。 新王が親政を開始したといっても、新王が これまでとは違う何らかの新事業を始めることでもしない限り、実務のこまごましたことは、これまで通りに王家に忠実な家臣たちが滞りなく行なってくれるだろう。 それこそ、全世界同時大飢饉のような緊急事態が発生しない限り、国が立ち行かなくなることはない。 王は、重要事項の裁可不裁可の判断と、民の陳情を聞いたり 民の生活の視察をして、旧弊の改善と新事業に取り組む決定を行なうことが、主な仕事となる。 氷河の母である王太后は、あくまで摂政だったので、民の生命を守ることを最優先最低限の仕事と考え、国の大きな改革や変更を行なうことはしなかった。 現状維持を心掛け、氷河の父王が亡くなった時の状態を悪化させることなく、北の国を氷河に渡すことが、摂政である彼女の仕事だった。 今、氷河は、王としての権利を持ち、この国を 王である自分が望むように 変えることができる。 その権利が、氷河にはある。 13年間、現状維持を第一義としてきた摂政時代のあとにやってきた、正式な国王の時代。 氷河は、王として、何事かを成し遂げなければなるまいと思った。 そして、名君として歴史に名を刻まれるほどの偉業を成し遂げれば、母は喜んでくれるだろう――。 そのために 自分が何をすればいいのかは、氷河には わかっていた。 この先、どれほど深刻な飢饉が起こっても、民を飢えさせないこと――その仕組みの構築。 つまり、北の国の内で食料の調達ができるようにすればいいのだ。 強力な軍隊を率いて、南下。 農作物や果樹が豊かに実る土地を、北の国の国土の一部にすればいい。 豊かな土地を有する南方の土地を、北の国に併合してしまうのだ。 そうすれば、北の国の民は飢えることはなくなる。 これまで、氷河と国のことだけを考え、自分の楽しみを持つ余裕もなかった母に、毎日のように感謝の気持ちを込めて花を贈ることもできるようになる。 こんな簡単なことに、北の国の歴代の王たちは なぜ着手しなかったのか。 氷河は、それが不思議でならなかった。 地図を見て、氷河は、まず 北の国の南東にある小さな国に攻め入り、その国の王都にある港を 北の国のものにすることを考えた。 その港は、不凍港。つまり、冬季にも海面が凍らない港、1年中凍ることのない港だった。 今、北の国は、冬には海面が凍りつく港しか持っていない。 そのため、冬場の運輸貿易は陸路を馬で行くしかなかった。 荷馬車で運べる物資の量は少なく、雪が深い場合には 物資の流通が何日も――時には月単位で――途絶える。 北の国は――氷河は――まずは この事態を打破する必要があった。 氷河は、希望と意欲に満ちた若い王らしい性急さで、早速 その仕事に取りかかったのである。 母を驚かせるために、彼女には秘密裡に。 不凍港獲得という目的を定めた氷河が最初にしたことは、北の鉱山で鉄を掘り出す仕事をしていた者たちを兵士として徴用教育し、軍を組織編成すること。 来る日も来る日も岩盤を削る仕事の繰り返しに倦んでいた屈強な鉱夫たちは、王の計画を知らされると、喜んで兵士に生まれ変わってくれた。 氷河は、彼等を率いて南下。 北の国の南東にあった小国に攻め入って王宮を取り囲み、あっという間に陥落させ、念願の不凍港を手に入れた。 神のいる国と呼ばれていた小国は、その時、神が留守にしていたのかもしれない。 驚くほど あっけなく、小国の都は氷河の手に落ちた。 そして、氷河は、南東の小国の王族のいなくなった王宮を、春までに 北の国の王太后のための離宮に改装するよう命じたのである。 南東の小国全土を北の国の支配下に収めるのに、氷河は、半月もかからなかった。 春になり、旅行が比較的 容易にできるようになった頃、これまで摂政として勤めてくれた苦労をねぎらうためと言って、氷河は 母と共に新領地の離宮に向かったのである。 つい数ヶ月前まで、他国の王宮だった城は、今では北の国の王太后の離宮になっていた。 生花で飾られた広間。 部屋部屋にも それぞれに色とりどりの花が飾られている。 「花の名前には詳しくないので、俺には説明できないが、フリージアとかストックとかルピナスとか、そんな名前の花らしい。この部屋のあれは、クロッカス……だったかな」 城の中を案内され、次々に美しい花の名を告げられても――氷河の母は笑顔を見せてくれなかった。 笑顔どころか、彼女の頬は真っ青になっていった。 「氷河……あなたは何をしたの」 「マーマに花をあげたかったから。マーマには宝石より花が似合うと思ったんだ。思った通りだ」 子供の頃に戻った気分で、氷河は得意げに母に告げた。 「庭にも、花園を作らせた。薔薇には早いので薔薇園はまだ寂しいが、庭には松雪草が咲いているんだ。コデマリだかハナミズキだか、花の咲く木も移植させた」 青ざめた頬の母の手を取り、氷河は彼女を庭に導いた。 王太后の頬からは 完全に血の気が失せ、彼女の顔は硬く強張っている。 「このあたりは、小麦も大麦もとれる。林檎や梨の果樹、野菜もトマトやブロッコリーが腐るほど実る。俺は、もっと南下して、我が国を 民が決して飢えない国にしてみせる」 「氷河……」 国の民と母のためになることをしたのである。 氷河は母に喜んでもらえると思っていた。 褒められることさえ期待していた。 だから 彼は、母の瞳に盛り上がってきた涙を、最初は喜びの涙だと誤解したのである。 だが、そうではなかった。 「どうして こんなことを……。この国の民も、私たちの国の民も、平和に暮らしていたのに――」 「マーマ?」 なぜ泣くのか。そんなに悲しそうに。 と尋ねようとした氷河への答えは、全く違う場所から、見知らぬ老人によって届けられた。 王と王太后が散策する庭の手入れをしていた白髪の庭師が 突然、手にしていた鎌を振りかざし、氷河に襲いかかってきたのだ。 「息子の仇! よくも!」 それは、北の国の軍隊に滅ぼされた小国の王の家臣だったのか、あるいは兵士の父だったのか。 彼が命を奪おうとしていた相手は間違いなく氷河。 だが、実際に彼が命を奪ったのは、氷河を庇った氷河の母だった。 農作物が実る国を北の国の一部にしてしまえば、北の国の民が飢えることはなくなる。 感謝しても しきれないマーマには美しい花を。 こうしなければならないのだと、北の国の王として、母に深い愛を注がれた息子として、自分は当然のことをしたのだと、氷河は思っていた。 兵たちも、喜び勇んで氷河に従ってくれた。 民を幸福にしたい。 母を喜ばせたい。 母の期待に応え、強い国を作り、強い王になろうとした。 君のために立派な王になろうとしたのに。 花に囲まれた温かく優しい日々を母に贈りたかっただけなのに。 氷河が用意した色とりどりの花は、そのまま、彼の母の弔いの花になってしまったのだった。 |