氷河が、母の亡骸を 春には春の花が咲く南東の国から 北の国の北の都に運んだのは、彼女を彼女の故国に眠らせるためだった。 1年の大半を雪と氷に閉ざされる純白の故国。 華やかとも 豊かとも言い難い厳しい北の国。 それでも、故国は故国。 最初に生まれ出で、そして、最期の眠りに就く地。 故国とは そういうものなのだということを、氷河は知らなかったのだ。 意識したことがなかった。 小国が一つ消えたとしても、それは その小国が北の国の一部になるだけのことと思っていた。 故国の独立を守るために命をかけて戦う者のことなど考えもしなかったし、その邪魔者を片付けることで、人の心に怨恨や憎悪を生むことになるなど、想像もしなかった。 大国の一部に組み込まれることを喜ぶ者は多いに違いないとさえ考えていた。 北の国の冷たい空気の中、王太后は 生きていた時と変わらぬ美しさで眠っていた。 その死に顔を見詰める時間を重ねても重ねても、氷河は諦めが つかなかったのである。 氷河は、母の葬儀の差配を行なう典礼長に 尋ねずにはいられなかった。 「母を生き返らせることはできないだろうか」 長い白髪の典礼長が、若い王を 痛ましげに見やり、首を横に振る。 「それは……冥界を支配する神、冥府の王ハーデスに頼むしかありません」 つまり不可能だと、典礼長は言ったつもりだったのだろう。 だが、氷河は重ねて彼に問うた。 「どうやって」 「おそらく、陛下では無理です」 「俺では無理……」 『陛下では無理』ということは、無理ではない人間がいるということ。 ぼんやりしていた氷河の意識は、一気に覚醒し緊張を取り戻した。 「誰ならできる? どうすれば冥府の王は、母を生き返らせてくれるんだ」 典礼長が 長い吐息のあとに、氷河の質問への答えを口にしたのは、やはり 氷河を諦めさせるためだったろう。 彼の声は 深く沈み、彼の瞳には 濃い翳りが宿っていた。 「冥府の王ハーデスは、汚れた人間を嫌っていて、生きている人間と接することはありません。冥府の王と交渉するには、罪を犯したことのない人間、行ないも心も清らかな人間を仲立ちとして立てて、生者の国への降臨を願うしかないと言われています」 冥王との仲立ちに立った者を 確かに清らかと認めれば、その者の祈りに応えて、冥王ハーデスは 人間界の神殿に降りてきてくれると言われている――。 典礼長の言を聞くや、氷河は 王太后の葬儀の打ち合わせのために王宮に来ていた大神官――北の国で最も格の高い神殿の主神官――に、彼の神殿で 彼に冥府の王ハーデスの降臨を願わせることにしたのである。 典礼長は止め、大神官も辞退したが、氷河は自身の命令を強行した。 結論を言えば、その日 氷河の命令に従い、自らが長を務める神殿で 冥王ハーデスの降臨を願った大神官は、 「冥府の王ハーデス。我が願いを聞き届けたまえ」 と言い終える前に、彼の神殿で命を落としていた。 あっというまのことだった。 「大神官が 汚れた人間だったのではなく、彼は 普通の人間だったのでしょう。清廉潔白ではなかっただけで、邪悪だったわけではない。彼は ごく普通の人間だったのです」 こうなることが わかっていたらしい典礼長の言は、氷河の心を静めるどころか、逆に激昂させた。 「普通の人間にすぎない者に、我が母の葬儀を執り行なう資格があるのか!」 氷河の憤りと不信は、ある意味 尤もなものだったので、神殿に居並んでいた神官たちと典礼長は何も言えなくなってしまったのである。 |