罪を犯したことのない者。心も行ないも清らかな者。
見事、冥王との仲立ちをしてのけた者には、どんな褒美も思いのまま。
金品でも、地位でも、国の半分でも、くれてやる。
望むなら、南でも東でも西でも、望みの国を侵略し、その国の王にしてやろう。
氷河が国中に その布告を出したのは、大神官が 冥府の王に命を奪われた その日のうちだった。
高い地位に就いている者、既に権威者として世に知られている者より、素朴な民の中にこそ、罪を犯したことのない清らかな人間がいるのではないかと、氷河は考えたのだ。
力なき者の方が、それこそ、罪を犯す力もないのではないかと。

褒美に惹かれて、清廉潔白を自称する者たちが、北の国の あちこちから名乗り出てきた。
彼等は、だが、都の神殿で冥府の王の名を口にした途端に 命を奪われ、冥府の王を生者の国に呼ぶどころか、反対にハーデスの国の住人にされてしまった。

罪を犯したことはない。
他者を傷付けたことはない。
善良である――。
自分こそは清廉潔白と主張する者たちが、次々に 冥府の王の怒りに触れ、命を落としていった。
冥府の王は非情だった。子供にすら容赦をしなかった。
10歳の子供が、どんな罪を犯し、どんな汚れに満ちていたというのか。
氷河は確かめる気にもならなかったが、ともかく ハーデスは 子供の命さえ 容赦なく奪った。
褒美目当てという点で その子供は 既に清らかではなかったのかもしれない。
30人ほどの人間が冥府の王召喚に挑み、失敗し、命を落とすと、もはや冥府の王召喚に挑む者は 氷河の前に現われなかった。

この国には――この地上世界には、もしかしたら 罪を犯したことのない者は 存在しないのだろうか。
心と行ないが完全に清らかな者が、この世界に ただの一人もいないということがあり得るのか。
それとも、真に清らかな者たちは 褒美に釣られることなく、氷河の呼び掛けに応じてこないだけなのか。

北の国の家臣たちは、氷河に、王太后のことを諦めてほしいと願っているようだったが、氷河にとって、母は他の何よりも大事なものだった。
そもそも氷河は、自分が立派な王になれば 母が喜んでくれると思ったから、北の国の民を幸福にしようとし、北の国を強く豊かにしようとしたのだ。
そういう意味で、氷河にとって 北の国と北の国の民は、母と同じものだった。

罪を犯したことのない清らかな人間。
そんな人間がいるのか。
存在の可否はさておき、清らかな人間とは、どんな人間なのだろうか。
自分のために生きるより、他者のために生きる、欲のない人間のことだろうか。
それなら、氷河の母が まさしくそうだった。
彼女は、彼女自身のためというより 息子である氷河のために生きているような女性だった。
彼女は、清らかな人間だったのか――?

ともあれ、氷河は、我こそは清らかな人間と自己申告してくる人間を、もう信じる気にはなれなかったのである。
だから、自薦ではなく他薦――皆が清らかだと思う人間を探すことにした。

冥府の王召喚の方法を氷河に教え、教えておきながら反対した典礼長が、“清らかな人”についての情報を氷河の許に もたらしたのは、おそらく――否、絶対に――氷河に母の奪還を諦めさせるためだった。
でなければ、氷河の浅慮愚行を責めるために、彼は その人の存在を 氷河に知らせてきたのだ。
「心当たりがございます」
半分 狂っている主君を見る目。
氷河に向けられる典礼長の眼差しは、怒りと憐れみでできていた。

「陛下の滅ぼした あの小国は、神の国と言われていました。かの国には、神殿に仕える(かんなぎ)と呼ばれる者がいるのです。神意を伺い、神意を得る者。地上で最も清らかな魂を持つ者が選ばれて、あの国の宮――我が国で言う万神殿を差配していました。今は我が国の軍兵に荒らされて、跡地が 我が国との戦で 家を失った者たちの避難所になっていると聞いています」

典礼長には、『頼めるものなら頼んでみろ』と挑発する気持ちもあったかもしれない。
恥を知っていて、プライドがあるなら、そんなことはできないだろうと、自らの主君を蔑む気持ちもあったろう。
典礼長の計算違いは、氷河の生きる人生の道しるべが “プライド”や“法”ではなく“愛”だったこと。
愛する人のためになら、氷河は、不倶戴天の敵にでも、国で最も貧しい浮浪者にでも、ためらうことなく土下座することのできる男だった。






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