その宮は、氷河と北の国にとって憧れの対象だった不凍港を見おろす 丘の上に建っていた。
石でも漆喰でもなく、木でできている。
壁が傷だらけなのは、北の国の兵たちの乱暴狼藉のせいなのかもしれない。
瓦屋根の平屋の脇に 高い塔があり、頂に窓があるところを見ると、その塔は、夜には灯台の役目も果たしていたに違いなかった。

横に長い平屋の前は庭――というより空き地になっていて、素足に粗末な藁で作った履き物を履いた子供たちが走りまわっていた。
大人たちは家の中にいるのか、外にいるのは子供ばかりが10人ほど。
彼等は、一人の例外もなく、ここが北の国なら 凍傷になって足を失っているような、見るからに貧しい出で立ちをしていた。
だが、彼等は皆(少なくとも子供たちは皆)、表情は明るかった。
子供たちの表情が明るいことが、不思議なことだが、氷河に罪悪感を運んできた。

どんな罪も犯していないのに、突然 他国に攻め入られ、滅ぼされた国の(かんなぎ)
その者は、自分の故国を滅ぼした侵略国の王を恨んでいるに決まっていた。
もし清らかであるがゆえに 恨みの感情を抱いていないのなら、その者は 人間らしい心を持っていない存在だろう。人間として欠陥品である。
そして、その者が 普通の人間らしく、侵略国の王を恨み憎んでいたなら、その者は既に清らかな人間とは言えないものになっているだろう。
憎悪や怨恨の感情は 罪ではないかもしれないが、清らかなものとは言えまい。
そうして、冥府の王を召喚する道は 永遠に失われてしまった(のかもしれない)のだ。
以前は ここに、どんな罪も犯していない清らかな者がいたかもしれないのに。
北の国の王は、そうと気付かずに、自分で自分の首を絞めていたことになる。

氷河は、自分が 他国の者を苦しめ、恨みの種を撒き散らしていることに、考え及んでもいなかった。
自国の民と母のことしか考えていなかった。
自分の想像力の貧困に、目眩いすら覚える。
自分の命で片が付くなら、そうしたい、
そうできたら、どんなにいいか――。
口中に 苦く渋い味が広がる。
いったい何かと思ったら、それは氷河がきつく噛みすぎたせいで破れた唇から 滲んだ血の味だった。



「貝を拾いに、浜に行くよー!」
ふいに大人の声――あるいは、子供の声か――が、空き地で騒いでいた子供たちの上に響く。
少女の声。
それは、成人していないという意味で 子供の声だったが、幼くないという意味で 大人の声だった。

10代半ば。
この国の民に特有の濃い色の髪。
だが、黒色ではなく栗色。
子供ではないので、幼い子供たちより肌の隠れる服を着ているが、手足が剥き出しなのは、子供たちと変わらなかった。
肌の色が、他の子供たちとは 全く別の生き物であるかのように白い。
白く見えたのは、その人が まとっている空気のせい――光を帯びた空気のせいで、そう見えているのかもしれなかった。

その人は輝いていた。
尋常の人間ではない。
この人こそ、典礼長が言っていた、いかなる罪を犯したこともない清らかな者だと、氷河には すぐにわかった。
彼女(彼?)は、『瞬』と呼ばれていた。

「貝より魚! 魚の獲り方、教えてくれよ、瞬」
「なに言ってんの! 今の時季は貝でしょ。貝の方が美味しいし、確実に採れる。瞬は魚を獲るのもうまいけど、あんたらは 魚を獲るって言って、いっつも遊んでるだけなんだから!」
「なに言ってんだよ! 俺たちだって、いつまでも失敗ばっかりしてないからな!」
「貝を50個 集めてからなら、魚獲りして遊んでてもいいわよ」
「ごじゅっこ~っ !? 」

どうやら、貝を確実に集めたい女の子たちと、魚獲りに賭けてみたい男の子たちの間で、対立があるらしい。
「瞬は、私たちの味方よねっ」
「瞬は、俺たちの味方だよなっ」
子供たちに 左右から引っ張られて、瞬は難儀しているようだった。
「今の時季は、浅瀬に食べられるような魚はいないから――魚獲りは危ないかな。魚は僕に任せて、みんなは貝を――」

木の陰に隠れていたつもりだったのに、いつのまにか自分が隠れていることを忘れ、ほとんど無意識のままに ふらふらと、氷河は瞬の方に歩み寄っていた。
10人ほどの子供たちが一斉に、瞬の背後に隠れる。
髪の色、瞳の色、身に着けている服、携えている鉄製の剣。
その様子から、王とはわからなくても、侵略国の者とは わかっただろうに、瞬は その場から逃げなかった。
子供たちを逃がすことも、家の中にいるのだろう大人たちに敵兵の襲撃(?)を知らせることもせず、ただ無言で氷河の顔を見上げ、氷河の瞳を見詰め、やがて、
「親鹿を殺された子鹿の目みたい」
と、小さな声で、瞬は呟いた。
その通りだったので、氷河は泣きたくなったのである。

遠目に見ていた時に既に 美しいことはわかっていたが、間近で見ると一層、瞬は美しい人間だった。
これほど澄んだ瞳が、なぜ これほど温かいのか。
この人に すがるしか、道はない。
氷河は、自身を鼓舞するために 再度 唇を噛み、『近寄るな』と退けられることを覚悟して、瞬に尋ねた。
「地上で最も清らかな心を持ち、いかなる罪を犯したこともない、カンナギというものが ここにいると聞いて来た。おまえ――あなたが そうだろうか」

故国を侵略した国の者に、瞬の当たりは やわらかかった。
怯えているわけではない。
おもねろうとしているわけでもない。
ただ、とにかく、敵意がまるで感じられなかった。
氷河が気抜けするほど。

「僕が、以前 巫の職を拝命していた者ですけど、僕は 特段 清らかな人間ではありませんよ。罪も犯します。自分が生きるために 他の命を食していますし、あなたのことを、ちょっと恐がっています。とっても失礼なことだと思うんですけど……ごめんなさい」
「あ……いや……」
一人で来てよかったと、氷河は思っていた。
従者など連れてきていたら、即座に北の国の王だということが ばれ、瞬に嫌悪と憎悪の表情を見せられていたかもしれない。
これほど美しい瞳の持ち主に、そんなことをされてしまっては――それは、あまりに切なすぎる。
それにしても、何という目か。
魂を吸い込まれてしまいそうになる。
永遠に、この瞳の中に閉じ込められてしまいたい。
氷河は、心から そう思った。

魂を瞬の瞳の中に吸い込まれ、瞬の前に立つ足許が、ふらふらと覚束なくなる。
氷河が かろうじて 正気に戻ることができたのは、
「何か とても悲しいことがあったんですね」
という瞬の言葉のせいだった。
理不尽で残虐な侵略国の人間を、気の毒そうに瞬が見詰めている。

「大切なものを見誤った。そのせいで、大切なものを失った」
「取り戻せないんですか」
「取り戻す術を探している」
「見付かるといいですね」
見付けた。
それは おまえだ。
――と伝えたい。
だが、そうして 冥府の王との仲介を依頼するには、自分が何者であるのかを瞬に知らせないわけにはいかなくなる。
依頼を断られることを恐れるからではなく、瞬に嫌悪や軽蔑の目を向けられることに耐えられそうになくて――氷河は、自分が何者であるのかを、瞬に伝えることができなかった。

「深いところになら、魚がいるのか? 俺くらいの上背があれば、大丈夫か?」
瞬が頷くより先に、瞬の後ろに避難していた子供たちが、大きな歓声を上げて、氷河の周囲に群がってきた。






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