魚獲りの技術を学ぶために来たのではない。
いつまでも 国を留守にしてもいられない。
わかっているのに、瞬から離れたくない――離れられない。
瞬を巫に任命した王家はなくなってしまったのだから、瞬は 浜の宮に縛られているわけではなく、そういう意味では、北の国に連れていくことも可能なのだが、自分こそが 瞬の国を理不尽に侵略した国の王だと告白する勇気が持てない。
氷河は、自分の心が どんどん瞬に引き寄せられ、今ではもう 解くことが困難なほど固く結びつけられてしまっていることを自覚していた。

母がいれば、国などいらないと思っていた。
今は、瞬が側にいてくれれば、国などいらないと思う。
国を捨てることは容易だった。
だが、母の命を思い切ることができない。
決断できずに半月。
氷河の宙ぶらりんの状態に決着をつけてくれたのは、氷河ではなく、瞬でもなく、北の国本土の王宮から 王を迎えにきた彼の家臣たちだった。

この国の巫のことを氷河に知らせたことに責任を感じていた典礼長と その従者たち。
典礼長は、侵略され 家も誇りも奪われた浮浪者たちと 北の国の王が共に魚を(すなど)っている光景に呆れ、瞬に かしずかんばかりの王の態度に危機感を覚えたらしい。
今では 宮とは名ばかりの建物になっている瞬の家にやってくるなり、彼は 氷河が何者であるのかを瞬たちに知らせてしまった。
より正確に言うなら、典礼長が知らせようとしていることを察した氷河が 彼を制し、自分で それを瞬に知らせた――のである。
今更 誰が知らせようと、それが瞬にとって不愉快な事実であることに変わりはなかったろうが。
この宮に身を寄せている者たちは大人も子供も、氷河の命令に従った兵士たちのせいで 家を失い、肉親を失った者たちだった。

「俺は、おまえの国を滅ぼした国の王だ!」
北の国の王のために父母を失った子供たちに囲まれている瞬と初めて出会い、自分が何者なのかを告げることができなかった宮の庭。
典礼長に知らされてしまうより 自分の口で。
少しでも卑怯の罪を軽くしたくて、自身が何者なのかを 勢いで 告げ終えてから、氷河は 瞬の反応に怯え、恐れた。

瞬は、氷河の正体を察していたのかもしれない。
少なくとも、訳ありの人間とは思っていたのだろう。
瞬の反応は、思いがけないものだった。
理不尽な暴力で故国を蹂躙された者としても、いかなる罪も犯したことのない地上で最も清らかな人間としても。
瞬は 素早く周囲を見まわし、その場に侵略国の者しかいないことを確かめて、氷河に頼んできたのだ。

「そのこと、この宮に 身を寄せている人たちには知らせないで。みんなには、氷河のこと、自分の国のしたことに納得がいかなくて 軍を脱走してきた人なんだろうって、言ってある。侵略軍を裏切って、自分たちを助けてくれている優しい人が、本当は侵略軍を指揮した人だったなんて、子供たちには 絶対に知らせられない。今は駄目。どんなに良心が咎めても、できれば永遠に、最低でも あと10年は、本当のことを あの子たちには教えないで」
「瞬……」
いかなる罪も犯したことのない 地上で最も清らかな人は、氷河に、『真実を隠せ』と、『嘘をつけ』と 命じてきたのだ。
依頼の形だったのだが、それは命令だった。
氷河は、瞬に逆らえないのだから。

いかなる罪も犯したことのない 地上で最も清らかな人に、虚偽と隠蔽の罪を犯させて 初めて――もとい、これまでより一層――自分が どれほど深く恐ろしい罪を犯したのかを、氷河は思い知ることになったのである。
それは、いかなる罪も犯したことのない 地上で最も清らかな人に 罪を犯させるほど、残虐で醜悪な愚行だったのだ。

地上で最も清らかな罪人。
典礼長は、しばらく 瞬の瞳を見詰めていたが、やがて、
「明日、もう一度、お迎えにあがります」
と氷河に告げて、その場を去っていった。
「どんな形であれ、陛下には逃げることは許されません」
と、あまりに正しく厳しい忠告を残して。

今では、それは氷河にも わかっていた。
この罪は、死をもってしても 償えない。






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