「ん……。エイプリル・フールだからって、絶対に嘘をつかなきゃならないわけでもないからね。ナターシャちゃんは、それでいいと思うよ」
「エ……」
『ナターシャちゃんは、それでいい』
瞬の その言葉に、ナターシャは引っ掛かりを覚えたらしい。
瞬が口にした言葉を、彼女は繰り返した。
「ナターシャはそれでいいノ? マーマはそうじゃないノ?」
「あ、それは――」

ナターシャは、なかなか鋭い。
ナターシャの指摘通り、瞬はそうではなかった。
大人は、嘘をつかなければならない時がある。
だからこそ、瞬は、エイプリル・フールにもエイプリル・フールでない日にも、つかずに済むなら、嘘など永遠につきたくなかった。

「僕は、嘘をつかなきゃならないこともあるから……」
「嘘ダヨ! マーマが嘘をつくはずないヨ!」
『嘘ダヨ! マーマが嘘をつくはずないヨ!』
“なかなか鋭い”ナターシャは、自身の主張の矛盾には全く気付いていないようだった。
が、それは ともかく。
瞬自身ではないナターシャが きっぱり そう言い切ることができるのは、もちろん彼女が瞬に嘘をつかれたことがない(あっても気付いていない)からである。
嘘つきが、『嘘をついちゃ駄目だよ』と、人に注意できるわけがないという思いもあるだろう。
星矢たちが、瞬を“地上で最も清らかな心の持ち主”と呼んで からかうせいもあるのかもしれない。
だが、現実には 瞬は嘘をつく人間であり、その頻度も おそらく普通の善良な市民より はるかに多かった。

「僕は お仕事で嘘をつかなきゃならないこともあるんだ。治らない病気の人に、『あなたはもう駄目です』って本当のことを言ったら、人によっては がっかりして 生きる力がなくなっちゃうかもしれないでしょう? パパの病気を心配してる小さな女の子には、あんまり大丈夫じゃなくても、『パパは大丈夫だよ』って言って、不安がらないようにしてあげなきゃならない。そういう嘘は仕方ないと思うんだ。でも、嘘は嘘だから、僕は そんな嘘をついてよかったんだろうかって、いつも 悩む。だから……嘘は、つかずに済むなら つかずにいた方がいい。ナターシャちゃんは 嘘をついちゃ駄目だよ」
「マーマ……」
「嘘はね……嘘をついたことは、いつまでも忘れられない。本当のことは、すぐに忘れてしまえるのに」

『すぐ、よくなりますよ』
同じ言葉が、嘘だった時には、いつまでも悲しい傷として胸に残り、事実だった時には、言ったことすら すぐに忘れる。
記憶に留めないことさえある。
病気に苦しむ人も 闘病の果てに亡くなった人も数多く見てきたが、瞬は どうしても そういった悲しい嘘に慣れてしまえなかった。
そうして、瞬の胸の傷は増える一方。決して 減ることはない。

「先週、交通事故に巻き込まれて、死にかけている女の人が病院に運ばれてきたの。その女の人は、5歳くらいの男の子の お母さんで、そのお母さんは、一緒に車に乗ってた子供を庇って、ひどい怪我を負っていて――とても助かりそうになかった。なぜ まだ生きてるのか不思議くらいだった。そのお母さんがね、子供は大丈夫だったのかって、最期の力を振り絞って、僕に訊いてくるんだよ。僕は、『大丈夫。お子さんは大きな怪我はしていません。お父さんも無事ですよ』って、お母さんに言った。お母さんは、『よかった』って言って、微笑みながら死んでいった」
「マーマ……」
「『あなたの子供も、そのお父さんも、みんな死にました。あなたも もうすぐ死にます』なんて、僕には言えなかったんだ。『生きています』って嘘をつく以外、あのお母さんを安らかに死なせてあげる方法が、僕には思いつかなかった……」

こんなことをナターシャに言って どうなるのか。
どうにもならない。
どうにもならないことは わかっているのだが、ナターシャは 瞬が傷付いていることを敏感に感じ取って、瞬を慰めてくれた。
瞬は涙など流していなかったのに、ナターシャが、
「マーマ、泣かないで」
と言って、その小さな手で 瞬の頬に触れてくる。
「うん……」

嘘をついたことのない清廉潔白なナターシャは、嘘をついた大人を責めずに慰めようとする優しさも備えている。
正しいばかりの人が その正しさを武器に、時に、正しくない人を残酷なまでに攻撃し続ける圧制者になることを知っているので――たとえば ハーデスは、自分が清浄な世界を作るために 正義を行なっていると信じて、人間を根絶やしにしようとしていた――、瞬は、ナターシャの優しさが嬉しかったのである。
涙を流していない人間の悲しみを感じ取れるなら、ナターシャは、彼女のパパや その仲間たち――強くて泣けない聖闘士たち――の涙にも気付いてくれるだろう。
ナターシャの優しい小さな手が、瞬に微笑を取り戻させてくれた。






【next】