ナターシャの優しさは、もちろん とても嬉しかったのだが、小学校入学も 年単位でずっと先の小さな女の子に 涙を止めてもらうのは、大人として 少々 きまりがわるい。 そのきまりの悪さをごまかすために、瞬は、掛けていた椅子から立ち上がり、ナターシャ用のグラスを取り出して、そのグラスに烏龍茶を注いでやった。 ナターシャは、他の子供たちが そうであるように、お茶より 甘いジュースの方が好きなのだが、彼女は、彼女のパパとマーマに、『甘いジュースは 氷河が作るものだけを飲む』という約束をさせられていた。 『ナターシャちゃんが、お店で売っているジュースばっかり いっぱい飲んでると、氷河が いじけちゃうからね』 と瞬に言われ、ナターシャは、パパをいじけさせないために、その約束をしっかり守っている。 グラスを両手で握りしめて 烏龍茶をこくりと飲むと、ナターシャは、お茶を 美味しいと感じたからではなく、パパとマーマとの約束を守っている自分に満足しているがゆえの笑顔を作り、グラスをテーブルの上に戻した。 それから、僅かに首をかしげて、瞬に尋ねてくる。 「マーマ。生きていることって、そんなに大事なことナノ? そんなに嬉しいことナノ?」 ナターシャは、どちらかというと、死より孤独の方を恐れる子である。 そんな彼女には、交通事故で亡くなったお母さんの話が、そのまま受け入れにくいものだったのかもしれない。 ナターシャは、パパのいない世界で一人で生きているくらいなら、パパと一緒に死ぬことの方を幸せと考える少女なのだ。 そうなのだと、信じてもいる。 ナターシャがそう考え信じる気持ちは 痛いほど よくわかるのだが、瞬は、それでもナターシャに生きていてほしいと思うのだ。 瞬は、それでもナターシャに生きていてほしかった。 「そうだね。夢や希望や可能性。そういうものは、基本的に生きている人間にだけ与えられ許されるものだから……。死んでしまったら、悲しいことや寂しいことはなくなる。楽しいことや嬉しいこともなくなる。何より、“もしかしたら、できていたかもしれないこと”が なくなってしまうんだ」 「もしかしたら、できていたかもしれないこと?」 悲しいこと、寂しいこと、楽しいこと、嬉しいことと違って、“もしかしたら、できていたかもしれないこと”が、今 自分のものではないことは、ナターシャにも わかるのだろう。 だが、現に今 持っていないものを失うことの悲しさは わからなかったらしい。 持っていないものは、失いようがないのだ。 それは確かに、その通りである。 ナターシャの考えは、正しい。 決して間違ってはいない。 「そう。“もしかしたら、できていたかもしれないこと”。ナターシャちゃんは、大人になった時、すごくカッコいい正義の味方になって、世界を滅亡の危機から救うかもしれない。とっても素敵なドレスを作る天才デザイナーになるかもしれない。大冒険家になって、誰も見たことのない花や動物を発見するかもしれない。今はまだ できていなくても、いつか ナターシャちゃんにできていたはずのことが、ナターシャちゃんが死んでしまったら、できなくなってしまうんだよ」 「……」 パパと同じ正義の味方に、天才デザイナー、大冒険家。 それらの未来は、ナターシャには 心揺さぶられる素敵な可能性だったのだろう。 だが、“素敵な夢も希望もパパがいるからこそ”――そう思う気持ちも消し去り難く、ナターシャは迷っているようだった。 小さなナターシャの世界はまだ、パパを中心に回っているから。 しかし、いつまでも その状況が続くとは限らない。 否、いつまでも そうであってはならないのだ。 「氷河は、ナターシャちゃんに、素敵な夢を叶えるために いつも希望を持って生きていてほしいと思っている。いつも そう思っている。ナターシャちゃんなら、きっと とっても素敵な夢を叶えるに違いないって、氷河は信じているんだ。ナターシャちゃんが素敵な夢を叶える時が来ることを、氷河は、心の底から願っている。氷河が そう願う気持ちが、ナターシャちゃんには わかるかな」 氷河がナターシャに何を望んでいるのか。 ナターシャの幸せが、氷河を幸せにすること。 氷河が幸せになるためには、何よりもまず、ナターシャが生きていなければならないこと――を、ナターシャには わかっていてほしい。忘れてほしくない。 そして、そのために、ナターシャには、いつ いかなる時も――どんなにつらい時にも どんなに苦しい時にも――何よりも 生きることを選ぶ子であってほしい。 氷河のため、ナターシャのため。 まだ幼くても、どんなに幼くても、それだけは選び損ねないでほしい。 氷河が ナターシャの幸福を願うように、瞬も、氷河とナターシャの幸福を願って、そう思った。 ナターシャが、“パパのことで自分に わからないことはない”と言わんばかりに、自信満々の得意顔で、力強く頷いてくる。 「ナターシャ、ワカルヨ! ナターシャも、パパに素敵な夢を叶えるために、いつも希望を持って生きていてほしいヨ!」 「えっ」 それは、氷河が 父親としてナターシャの幸福な未来を願うように、ナターシャもまた 氷河の幸福な未来を願っているということだろうか。 つまり、ナターシャは、『幸福になってくれ』と 親に願われるだけの子供ではなく、我が子の幸福を願う 氷河の親心に似た思いを、ナターシャは 氷河に対して抱いている――と。 「そ……そうなんだ」 ナターシャは、大好きなパパの夢が叶うよう願っている。 そのために、希望を失わずに 未来に向かって生きてほしいと願っている。 氷河が若すぎて親としての貫禄不足なのか、ナターシャが甘やかされるだけの子供ではないからなのか。 パパの幸せな未来を願うナターシャに――というより、幼い娘に 『いつも希望を持って生きていてほしい』と願われる彼女のパパに――瞬は、苦笑した。 「パパの夢は、『パパは、マーマといつまでも仲良く幸せに暮らしました』ダヨ! マーマに世界一 愛されて、パパは 世界一幸せなパパになるヨ。そのために、パパは 世界の平和を守ってるんダヨ!」 氷河は いったいアテナの聖闘士としての務めを、どういうものだと ナターシャに説明しているのか。 これでは、幼い娘に、希望を持って生きることを願われても仕方がない(かもしれない)。 氷河の若さ(?)に、瞬は短い息を洩らしてしまった。 「ナターシャちゃんと一緒にね」 「ウン。ナターシャは、パパの幸せを守るヨ!」 その上、ナターシャは、パパというナイトに守られるだけの受け身のお姫様でいるつもりもないらしい。 パパが大好きなナターシャは、彼女自身が パパのナイトになるつもりでいるようだった。 「そのために、ナターシャは、マーマみたいに強くてお利口なナターシャになるんダヨ。それが ナターシャの夢ダヨ」 マーマみたいに強くてお利口なナターシャになること。 それが大きな夢なのか 小さな夢なのか、良い夢なのか、そうではないのか――は、瞬にも 判断が難しい――判断しにくかった。 だが、瞬は ナターシャの夢が 自分だけの幸福や成功を目指すものでないことを嬉しく感じたのである。 ナターシャは、自分以外の人間の幸福を願うことのできる少女に育っている。 今はまだパパの幸福だけだが、その心は やがて もっと大きく広くなっていくに違いないと、瞬は思った。 「ナターシャちゃんは、ナターシャちゃんらしい強さと お利口を目指すのがいいね。ナターシャちゃんが氷河の夢のために頑張ってることを知ったら、氷河はきっと、ナターシャちゃんの優しい気持ちを喜んで、嬉しくて踊り出しちゃうよ」 『パパが喜ぶ』。 その言葉を、ナターシャが喜ぶ。 嬉しそうな笑顔になったナターシャに、瞬は――瞬も笑顔になるしかなかった。 それがナターシャの幸せだというのなら、これほど幸せなこともないだろう。 ナターシャの幸せはナターシャが決める。 ナターシャの幸せは、それなのだ。 ナターシャは もちろん、他の人たちがそうするからといって、彼女まで4月1日に嘘をつく必要もない。 |