美少女にしか見えない美少年の名前は瞬。 瞬は、氷河が 冥王の指輪を我が物にと望むことをやめさせるために――冥王の指輪のルールを、氷河に教えてくれた。 冥王の指輪は、生きている人間の指に3日以上 嵌められていないと、その強大すぎる力が暴走して 惑星や衛星を動かし、太陽の前に立ちはだからせ、陽光が地上に届かないようにしてしまう危険なものであるらしい。 瞬は、指輪の力を暴走させないために、冥王の指輪を指に嵌め、同時に、指輪の力で 世界を支配してしまわないために――誰にも その力を与えないために――もう何百年も、もしかしたら 千年の時を超えて、誰も足を踏み入れることのできない(はずの)地の山の神殿で眠っていた――のだそうだった。 「僕は、この指輪が 世界に破滅を招かないよう、その事態を阻止するために 捧げられた生贄です」 神話の時代、瞬の身体を使って 人間界を支配しようとしたハーデスと、ハーデスの地上支配を阻止しようとした女神アテナと人間たち。 戦いの女神と 彼女の加護を受けた人間たちは、ハーデスを追い詰めることができるほど強かったが、冥王の指輪を破壊することはできなかった、 が、冥王の指輪を そのままにしておいたのでは、愛を捨て 野心に囚われた人間が、指輪を我が物にして世界を支配しようと考えるかもしれない。 そこで、ハーデス、アテナ、人間の間で、一つの約束が結ばれたのだ。 ハーデスは、瞬を使って地上世界を支配することを断念する。 瞬は、瞬以外の誰のものにもならない。 冥王の指輪は、生きている人間である瞬のものとし、だが、瞬と瞬以外の人間が その指輪の力を使うことがないように、眠りに就く。 瞬が目覚めるのは、冥王の指輪を求める人間が、その手で瞬から指輪を受け取ることが可能なほど近くで、瞬に目覚めを命じた時。 こうして瞬が目覚めてしまった以上、今から3日のうちに、瞬を目覚めさせた人間が 指輪の新しい持ち主になるか、あるいは、元の通り、瞬が指に嵌めたままで 再度の眠りに就くか――を決めなければならない。 指輪が瞬のものでなくなれば、瞬は一人の人間として 残りの命を自由に生きていい。 指輪が瞬以外の誰かのものになった時、瞬は、冥王の指輪から解放されることになっているのだそうだった。 「僕が 冥王の指輪を指に嵌めて眠りに就いている限り、冥王の指輪が 力を発揮することはないんです。世界が ただ一人の野心家に支配され、その独裁者の専横を許すことになったら、この地上世界は どうなるか――。しかも、その独裁者は 愛を解さず、愛の価値を認めない、人間とも思えない人間なんですよ。なのに、あなたは、僕を目覚めさせてしまった。あなたは、自分が この世界にどれほど重大で深刻な危険をもたらしたのか、理解しているんですか!」 冥王の指輪の危険性を語っているうちに、瞬の態度や所作から やわらかさが消え、それは徐々に固くなっていった。 表情も、険しさを増していく。 氷河は、それが残念で――彼の表情と心も冷えてきた。 「愛を捨てた独裁者が、この世界を支配したところで、世界が これまでより悪くなるとは限るまい。良くなるとも思えないが」 あの 心優しく善良で美しかった女性を救ってくれなかった世界。 この世界が どうすれば これ以上 悪くなることができるのか――というのか、氷河の偽らざる気持ちだった。 冥王の指輪を我が物にできる(今のところ)唯一の男の、まるで他人事のような呟きに、瞬が眉根を寄せ、首をかしげる。 その様子が可愛いくて――氷河の凍っていた心は うっすらと解け始めた。 「あの……あなたは、この指輪を自分のものにするために、ここに来たんですよね? でも、それにしては――」 野心めいたものが感じられないことが、瞬は 不思議でならないらしい。 しかし、それは 謎でも不思議でもなかった。 “世界への復讐”は、氷河の野心ではなかった。 あえて言うなら、それは氷河の義務――母の存在が失われた世界で 生き続けなければならない氷河の、それは義務だったのだ。 そして、往々にして人間というものは、義務には意欲的には向き合わない。 少なくとも、好奇心や 愛や憎悪ほどには。 氷河も、その点では、例に洩れなかった。 「眠りに就く前、おまえには恋人がいたか?」 とりあえず、それが、今の氷河が最も知りたいことだった。 「は?」 「いや。いないな。いたら、その男か女は、おまえが こんな眠りに就くことを 絶対に許さなかったはずだ」 「……」 答えを勝手に提示する。 否定の言が飛んでこなかったので、氷河が勝手に提示した答えは正答だったらしい。 氷河が唇を ほころばすと、瞬は 困ったような泣き笑いになった。 おそらく 瞬は、『そんな話をしている場合じゃない』と言いかけた。 だが、瞬は その言葉を口にせず、代わりに、 「あなたは、なぜ ここに」 と尋ねてきた。 瞬のことも知りたいが、瞬に自分のことを知ってもほしい。 母を失ってから、他者に そんな思いを抱いたのは、これが初めてで、氷河は そんな自分に奇異の念を抱いていた。 マーマには、その日あったことを どんな小さなことでも――マーマを悲しませること以外はすべて――報告していた。 その報告を 母が喜んでくれれば嬉しかったし、母に叱られることさえ嬉しかった。 当時は わからなかったが、今なら わかる。 幼い自分は、母に自分を理解してほしかったのだ。 すべてを知って、理解して、ありのままの自分を認め、許し、愛してほしかった。 同じ気持ちを今、氷河は 瞬に感じていた。 そうして氷河が瞬に語った、彼が“冥王の指輪”を欲するに至った事情。 ただ一人の肉親を失った無力な子供が生きていくために、“世界への復讐”という目的を定め、その目的の遂行のために冥王の指輪を手に入れようとしていること。 成し遂げたいことは、母を見捨てた世界への復讐なので、その目的を成し遂げたら――世界を自分のものにしたら――そのあとはどうなってもいいと思っていること。 自分がなぜ冥王の指輪を手に入れようとしているのか。 その理由を人に語ったのは、氷河は これが初めてだった。 いつも考えていたこと、だが、その時々で断片的に考えていたことを、いざ人に理解してもらうために語ってみると、自分の思考や言動が全く 論理的でなく合理的でもなく――感情的にすら矛盾していることがわかる。 氷河はただ、母のいない世界で生きていくために、何らかの よすがが欲しかった――必要だった――だけなのだ。 この支離滅裂で短絡的な話に、瞬は さぞや呆れているに違いないと氷河は思ったのだが、瞬の反応は 氷河が予想していたものとは違った。 非合理、不条理としか言いようのない 氷河の半生(といっても、たかだか十数年だけなのだが)と復讐計画に、瞬は羨ましそうに微笑を浮かべ 呟いたのだ。 「あなたは、お母様が大好きだったんですね……。さぞや、美しくて、優しくて、愛情深い女性だったんでしょう。あなたのお母様は あなたをどれほど愛していたことか――。あなたの お母様は きっとあなたのためだけに生きていたんだ。優しくて、強い方だ」 瞬の瞳は、涙で潤んでいた。 愛する母を失った氷河を哀れんでいるのではない。 無論、気の毒に思ってはいるのだろうが、それだけではない。 微笑しているのに、瞬の瞳は潤んでいた。 そして、瞬の言葉は、氷河が本当に欲していたものが何だったのかを、氷河に教えてくれたのである。 世界を支配する力も、世界に復讐することも、実は氷河は望んでいなかったのだということを。 氷河が欲しかったのは、母の価値を認めてくれる人だった。 彼女の愛の深さ、美しさ。 彼女が、どれほど彼女の息子を愛していてくれたか。 彼女が どれほど素晴らしい女性だったかを知り、認めてくれる人、認めてもらえること。 彼女は 本来、あんなふうに悲しく一人で死んでいっていい人ではなかった。 彼女は、その死を、世界中の人間に悼まれるべき人。 彼女には、それほどの価値があったのだ。 氷河は、その事実を、世界中に知らしめたかったのだ。 それが、氷河の復讐だった。 彼女を幸福にしてやれなかった自分への復讐。 彼女を守り抜くことができなかった自分への復讐。 そして、母への追悼だったのだ。 母を悼むために、母亡きあとも 氷河は生きてきた。 氷河は ただ母を愛していただけ。 彼女が生きていた時も、亡くなってからも、ただ それだけだったのだ。 |