指輪の力を手に入れたいのも、母への愛ゆえ。
氷河の復讐の計画を聞いて、瞳を潤ませ微笑んでいる瞬。
瞬はやがて、なぜか ほっと安堵したような短い吐息を洩らした。
実際、瞬は ほっとしていたのだろう。
氷河が欲しているものが権力や暴力、支配や破滅ではなかったことを知って。
それどころか、冥王の指輪が もたらすものとは 全く異なるものを 氷河が欲していることを知って。

「この指輪は、冷酷な欲の象徴です。愚かで不幸な人間が欲するものを、愚かで不幸な人間に与えるのが、この指輪なんです。世界を自分のものにしたいと望むような人間は、自分を、人に愛されない、人を愛することのない人間だと思っているから、人に愛されず、愛することもなく、世界を手に入れようなんて、悲しいことを考えるんです。あなたが その指輪を自分の指に嵌めると――」
「氷河」
「はい?」
ふいに話の腰を折られて、瞬が 暫時 きょとんとする。
「俺の名は氷河だ」
名前を知らされていることを理解すると、瞬は すぐに その情報を会話の中に組み込んできた。

「はい、氷河。氷河が その指輪を自分の指に嵌めることは無意味です」
「それは、世界を支配する力が得られないということか。俺では、世界の支配者になれないというのか」
「いいえ。指輪を指に嵌めさえすれば、誰でも世界の支配者になることはできます。けれど、氷河は、誰をも愛さない、誰からも愛されないものになるんです」
「そう聞いている」
「氷河は 愛を得られない。氷河は 愛を求めない。氷河は 愛の価値を知らないものになる。氷河は、この指輪の主になると、お母様の愛を忘れます。お母様のために復讐する気もなくなります」
「……」

誰を愛することもできず、誰からも愛されることのない呪いを受けるとは、そういうことらしい。
瞬の言う通り、自分が この指輪を我が物にすることは無意味だと、氷河は思った。
確かに それでは、意味がない。
「復讐のために愛を捨てるつもりだったのに、マーマへの愛を忘れたら、そもそも 俺は、マーマを救ってくれなかった世界を憎むこともないし、世界への復讐も考えない――ということか」
「愛を知らない人は、人を憎むこともしません。できません。愛なしで、人は自分の心や感情を動かすことはない。愛に無反応でなければ、世界を支配することもできません。世界の支配者になるということは、ある意味、人として死ぬということなんです。冷たい石像になって、世界に君臨するということなの」
「人として死ぬ……」
世界の富が眠る地下世界の王の黄金で作られた冥王の指輪――死者の国を統べる王の指輪。
持ち主に 世界を支配できる力を与える指輪が“冥王の指輪”と呼ばれるのは、そういうことでもあったのかもしれなかった。

「僕が眠っている間に、この地上世界のすべてを支配する人間は現れましたか? つまり、冥王の指輪なしで、世界の王になった者は現れたのかという意味ですが」
「おまえが いつから ここで眠っていたのかは知らないが、人類の歴史上、世界帝国の王は まだ一人も現れていない」
瞬の答えを聞いて、瞬は頷いた。
「そうでしょう? 心を持つ人間に、世界を支配することはできないんです」
そして、冥王の指輪を指に嵌めれば、人は心を捨てることができる――ということらしい。
「この指輪を人間が嵌めるということは、暗雲になって世界を覆い尽くすようなもの。あるいは、愛を知らない神になるようなもの。幸せを、自分から捨てるということです」
「捨てるも何も、俺は幸せじゃない」
「これから幸せになれる可能性を、完全に放棄するということなんです」

その可能性はないと思ったから、愛を諦めて、冥王の指輪を手に入れようと思ったのに。
新しい愛や幸福を手に入れられる可能性がなくても、氷河はマーマを愛し 愛された記憶を忘れることはできなかった。
それだけはできない。
だが――。

「だから、俺に、復讐を諦めろというのか」
「諦めましょう。氷河のお母様も、そんなことは望んでいないと思います」
軽く言ってくれるものである。
母亡きあとの十数年間を そのためだけに生きてきた男の前で。
「しかし、それでは、俺の生き甲斐が、生きる目的がなくなってしまう」
「愛を忘れなければ、そんなものは すぐに見付かりますよ。氷河は若くて、美しい。オリュンポスで美貌を謳われていた どんな神々にだって負けないほど、氷河は綺麗です。きっと素敵な恋に巡り会うことができます」
「俺は、おまえがいい。これまでに俺があった すべての人間の中で、おまえがいちばん綺麗だ。多分、姿だけでなく、中身も」
「え……? え……と」
「おまえが 俺の心を慰めてくれるのなら、冥王の指輪、俺のものにならなくてもいい」
「あの……氷河。僕の話、ちゃんと聞いていました?」
「聞いていた」

瞬がなぜ そんなことを訊いてくるのか、氷河は 逆に瞬に尋ねたかった。
これからの自分の人生に関わること。
“ちゃんと”真剣に聞いていないはずがないではないか。

「俺は、マーマのことを忘れることはできない。当然、その指輪の主になることはできない。だが、命をかけて 俺を生かそうとしたマーマの思いを無にしないために、俺は死ぬわけにもいかない。俺には生きる目的が必要だ。それは おまえだと思う。おまえは、マーマと同じくらい綺麗で、俺は好きだ。俺は、冥王の指輪の主になるためではなく、おまえに会うために この地に来たのだと思う」
氷河としては、その考えは 母の非業の死が 世界の支配につながる道筋より はるかに理路整然としていると思っていたのだが――確信をもって、そう思っていたのだが――瞬は氷河の意見に賛同してくれなかった。

母の死が世界への復讐を考えさせたという支離滅裂な話には、胸を打たれたふうを見せてくれたのに、生きる目的を“世界への復讐”から“瞬”に変更するという 氷河の計画には、瞬は賛同どころか、冥府の王の逆立ちの現場でも見るような目を氷河に向けてきたのだった。
やがて 何とか気を取り直したように、そして 半ば顔を俯かせたまま、瞬は力なく首を左右に振った。
「僕は……冥王の指輪を嵌めて、再び 眠りに就かなければならないと思います。この指輪が生きている人間の指に嵌められていなければ、3日のうちに 世界が闇に包まれることになる」
「なぜ おまえなんだ。おまえは、普通の人間ではないのか」
「普通の人間です」
「普通の人間が その指輪を指を嵌めたら、愛を忘れ、愛に見捨てられ、世界を支配しようとするのではないのか? おまえは愛を拒んでいるようにも見えないし、世界の支配者になろうとしているようにも見えない。歳をとっているようにも見えないな」

普通の人間が 神の作った指輪の力に支配されず、自我を保っていられるものなのか。
それが、氷河の疑念だった。
もちろん、瞬には普通の人間であってほしいと思うが、瞬が普通の人間であるはずがないとも思う。
氷河の疑念を察して、瞬は頷いた。
「冥王の指輪を嵌めて眠っている間は、僕の時間は止まることになっています。僕を目覚めさせた人が、冥王の指輪を自分のものにすることの危険を悟り、指輪を嵌めたままの僕に『再び、眠りに就け』と命じれば、次に別の誰かが僕を目覚めさせるまで、僕は深く長い眠りに就く。その間、僕は歳を取ることもなく、死ぬこともない。それは、ごく普通の人間にすぎない僕が、この指輪の力を抑えるための供物になる決意をした時に、冥府の王ハーデスと 知恵と戦いの女神アテナの間で結ばれた約定に基づくルールで、この指輪を他の人に譲れば、僕は完全に普通の人間に戻ります。普通に歳を取り、普通に人を愛することの許される、普通の人間に戻ります。僕は、全人類を代表して選ばれた犠牲なんです」

瞬は普通の人間。
冥王の指輪を余人に譲れば、冥王の指輪から解放され、自由になる。
それは、氷河には 嬉しい情報だった。
冥王の指輪など、欲しい者にくれてやればいい。
それで 瞬は、自分と同じ 自由な普通の人間になるのだ――。

「この指輪は、世界と人類を滅亡させるために冥府の王ハーデスが作った指輪なんです。常に 誰かの指に嵌められていなければならない。ハーデスは、本当は、この指輪が 僕以外の誰かのものになる時を待ちわびているんです。そうなれば、人間が必ず滅びると、ハーデスは確信している。愛を完全に捨てた支配者は 必ず人間世界を滅ぼす、人間を一人残らず根絶やしにすると、ハーデスは確信している。僕は、その事態を何としても回避したい」
「いくら 世界を支配できる力を与えられるにしても、たった一人の人間が 愛を放棄したくらいのことで……」
それで人間世界が滅びることなど、ありえない。
この世界には、うんざりするほど多くの人間が ひしめき合っているし、世界の王になった人物にも、自分の命令を聞く人間は必要だろう。
人類を根絶やしにしてしまったら、この世界の王は この世界の王になった意味がないではないか。
心配しすぎて 悲観的になりすぎている瞬を、氷河は一笑に付そうとしたのである。
だが 瞬は、氷河に軽い一笑をすら許さなかった。

「それほど、愛には力があるんです。それは無限の力です。逆に、愛がないことは、マイナスの無限の力を生む」
険しい声、厳しい目で 言い募る瞬に、氷河の心も険しくなった。
瞬が そんな考えに囚われている限り、瞬は指輪に殉じて、氷河と同じ“普通の人間”に戻ってくれないだろう。
「それは過大評価というものだ。良くも悪くも、愛にそんな力はない。この世界も、おまえが躍起になって守るだけの価値があるかどうか、怪しいものだ。冥王の指輪を使って世界を支配する者が現われなくても、この世界は悲しいことばかりだ。たとえ滅んでも――滅んだら、その方がましなくらいだ」

氷河の口調が投げ遣りになったのは、ついに見付けた母以外の愛の対象、ついに見付けた新しい生きる目的が、自分の手の届かない場所に行ってしまいそうな予感がしたから――その可能性の大きさを感じずには いられなかったからだった。
そうならば、既にマーマもいない世界は、氷河には、たとえ滅んでも悲しくも惜しくもない世界だったのだ。






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