後悔 –あるいは、後悔しない男-






それは、不思議な雰囲気を醸し出している少年だった。
歳は、16、7歳。
髪の色も瞳の色も黒。
だが、日本人ではない。
国籍のみならず、人種や民族も わかりにくい。
強いて言うなら、混血。
すべての人種の血、幾つもの民族の血が入り混じったなら、こんな姿の人間ができあがるのかもしれない。
そういう意味で、彼は“未来的”だった。

顔立ちが整っているのは、外見上の個性に乏しいから。
彼は、黒人の特性も白人の特性も黄色人種の特性も備えていないのだ。
黒人の特性も白人の特性も黄色人種の特性も、すべてを備えているがゆえに。
その少年の姿を見て、瞬はそう思った。
外見上の無個性というものは、“美しい”と同義なのではないか――と。

彼は、陽炎に似ていた。幻影にも見えた。
生きているのか死んでいるのかも わからない。
彼は、ただ瞬を見詰めていた。
当然、瞬と共にいる氷河を見ることになる。
あるいは、氷河を見ているから、氷河と一緒にいることの多い瞬をも視界に映している――のかもしれない。
とにかく、彼は、瞬と氷河を見ていた。

――見詰める目。
外見の無個性とは対照的に、彼の視線は 恐ろしく個性的――強烈な個性があった。
見ているものを、問答無用で完全否定する視線。
瞬や氷河を見る彼の瞳は いつも、『こんな奴等に、生きている価値があるのか、存在する価値があるのか』と、憤慨していた。

今日も見ている。
彼は、学校には通っていないのだろうか。
瞬の声に出さない独り言は、突然 光が丘公園のケヤキ広場内に響き渡った小さな女の子の叫び声で、中断させられた。
幼い女の子の悲鳴じみた泣き声を、成人女性の感情的な怒声が追いかけ、それは幼い少女の泣き声を力づくで踏み潰した。

「どうして、ママの言うことを聞かないのっ。ママ、昨日も おんなじこと言ったよね!」
叱責の声や言葉より ママの剣幕に怯んで、暫時 小さくなった女の子の泣き声が、叱責の声や言葉より ママの剣幕に触発されて、また大きくなる。
しかし、彼女の母親の怒声は、それに輪をかけて大きなものだった。
「そんな大声で泣かないでっ。まるで、私が虐待してるみたいじゃないの。私、あなたに何かした? 私、あなたをぶった? ぶってないでしょ! あなたは、いつも、私の言うことをきかない! 右に曲がりなさいって 言っても、曲がらない。私を待っててって言っても、待ってない。ママと手をつないでって言っても、無視して ぼーっとしてる。いつもいつもいつもそう。だから 叱ったの! ママ、昨日も 同じこと言ったよね。あなたは、私を困らせたいの!」

泣いている少女は、3、4歳だろうか。
母親は30前後。
今日は これほど目立っている母子――を、瞬は これまで この公園で見たことがなかった。
最近、この公園の近くに引っ越してきたのかもしれない。
子供は、ぶたれなければ泣かないものと決めつけている母親。
一人称に『私』と『ママ』が混在しているのは、そのまま彼女の心情を表しているのかもしれなかった。
母親の怒鳴り声に負けて 泣くのをやめた少女は、激しい剣幕の母親を ぼうっと見上げ、見詰めている。
彼女は、やがて 困惑した様子で、
「わたし、違う。ママ」
と、母に答えた。
要領を得ない答えだったが、彼女の母親は それを自分が理解したいように理解した。
つまり、娘は母親に口答えしたと理解したようだった。 
娘の口答えに、母親が 口答えする。

「でも、あなたは、ママの言うこと、全然聞かないよね? 私が何か言っても、いつも ぼんやりしてるだけ。右と左を間違うなら 可愛げもあるけど、あなたは まっすぐに行く。そんなことが何度もあった。私を困らせるために そうしてるのじゃないなら、あなたは馬鹿なの? 何度も何度も同じこと!」
子供が感情的になれないほど、母親が感情的。
彼女は、だが、本来は乱暴な女性ではないのだろう。
こういった“逆上亜と言っていいほど激しい感情の興奮は、比較的 高いレベルの教育を受けた、自分を理性的と思っている人間に多い。
理屈通りに動かない子供が理解できず、言葉で言っても理解しない子供を許すことができず、苛立つことをやめられない――。
そんな人が、人目の多い公園で 体裁を取り繕うこともせず(できず)、大声をあげて逆上しているのである。
彼女は、危険な領域に足を踏み入れようとしているように見えた。

「やっぱり、公園で遊ぶのはやめ! 帰るわよ!」
一方的に宣言し、一人で すたすたと歩き出す。
少女は、何を言われたのか わからないような顔で、しばらく、ぽかんと その場に突っ立っていた。
10秒ほど遅れて、慌てて母親を追いかけていく子供を、母親は振り返りもしない。
車両が走る道路ではないとはいえ、母親に追いついた娘の手を、彼女は握ろうともしなかった。
「ママ……ママ! ママ……ママ!」
小さな声と大きな声で、交互に母を呼び、少女は母親の手を握ろうとするのだが、母親は わざと大きく腕を振って、子供に手を握らせなかった。

必死に母親を追いかける子供。
娘を待たない母親。
母親の足がやっと止まったのは、わざと早足で歩いていた彼女が、遊歩道の途中で転んだから。
見事な尻餅だった。
なぜ自分が転んだのか理解できていない母親が、その理由に気付き、素頓狂な声を張り上げる。

「何これ、氷? 道が凍ってるってって、どういうこと !? 」
どういうことなのか、わかっている人間は、その場に二人しかいなかっただろう。
そして、その二人は、どういうことなのかを 彼女に知らせることはできなかった。
瞬にできたのは、地上の平和を守るために使うべき力を、自分の気に入らない女性への嫌がらせに使った氷河を責めることだけ。
「氷河……!」
自分に非があると思っていない氷河は、無論、瞬に睨まれたくらいのことで反省することはない。

幼い娘に冷淡な母親の態度を許し難く感じる氷河の胸中は、痛いほど わかる。
わかるが、彼は あの少女のパパではないのだ。
「ママ……」
心細げな娘の声を、彼女の母親は 苛立ちと否定で退けた。
「もうもう、こんな、頭が足りない子が私の子だなんて! 私は、学校のテストは いつもいちばんだったのよ。どうして私の娘が こんな……誰にも紹介できやしない! こんなの、何かの間違いよ!」
彼女の大音声で、『成績がいい』と『頭がいい』は別物だとわかる。
この場で最も“頭が足りない子”は、少女の母親だった。
母親の否定的な感情を感知して、自分の娘が傷付いていることすら、彼女は認知していない。

それまで無言で母娘の やりとりを聞いていた氷河が、半泣き状態の母親の許に つかつかと歩み寄っていく。
瞬が止める間もなかった。
顔を伏せている少女の頭に人差し指と中指薬指を置き、氷河は真顔で 少女の母親に申し入れた。
「なら、この子を俺にくれ。俺が育てる。きっと幸せにする」
「えっ」
突然、見知らぬ外国人に そんなことを言われたら、意識せずに我を失っている女性も さすがに驚いて、自分の感情だけでなく、周囲の状況を確かめる気にもなる――なったようだった。
“ヒステリックな母親”が かなり衆目を集めていたことに、彼女は初めて気付いたらしい。

「そうして もらえたら助かりますけど、それって犯罪ですから!」
自分が何のために体面を保とうとしているのか、彼女自身もわかっていないのだろう。
彼女は得体の知れない外国人に 慇懃に反駁しようとし、そんな彼女の反駁を、氷河は、いっそ 見事に無視してのけた。
「来い」
そう言って 手を差しのべる。
優しい声ではないのに、少女は恐がることなく、おずおずと その小さな手を 氷河に預けようとした。

母が すぐ側にいるのに、見知らぬ外国人についていこうとしている我が子に、さすがにショックを受けたのか、急に、過呼吸の発作でも起こしたかのように、母親の息が荒くなる。
脂汗をにじませ、肩を大きく上下させる母親を見るのは、これが初めてではなかったのだろう。
女の子は、氷河に預けようとしていた手を引っ込めて、彼女の母親の許に駆け寄った。
「ママ……ママ、苦しい? 大丈夫だよ。苦しくないよ。ママ、大丈夫だよ」
女の子は泣くのをやめて、必死に母の手を撫でている。
娘に手を撫でられている以外に どんな対処も施されていないというのに、母親の過呼吸に似た荒い息は、すぐに落ち着いてきた。

どんなに つっけんどんにされても、少女は、母親が大切らしい。
そして、どんなに苛立ちの種、不満の種であっても、母にも娘は かけがえのない存在であるらしい。
手を繋ぎ合っている母と子を見て、氷河が切なげに眉根を寄せる。
無言で 踵を返し、すたすたと氷河は 公園の芝生広場に続く道を歩き出した。
恵まれた体躯に 鍛えられた肉体。
正しい姿勢が身についていて、肩を丸めることさえできない氷河の姿は、見ている瞬の方が切なくなるほど隙がなく、端然としていた。






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