何のためなのかは知らされていなかったが、本当ならマーマと一緒に来るはずだった極東の国 日本。
結論を言えば、俺の境遇は さほど変わらなかった――すごく良くはならなかったが、あまり 悪くもならなかった。
人間ってやつは、人種だの民族だの国籍だので 大きく変わるってことはないらしい。
人間性ってのは、万国共通なんだ。

日本で、俺が これから暮らすことになる家での運営責任者だか管理監督者だかは、俺がシベリアで言われ慣れ、聞き慣れていた罵倒や侮言を、ほとんど そのまま口にした。
言語がロシア語から日本語に変わっただけ。
俺は日本語がわかるけど、もし 日本語がわからなくても、自分が何を言われているのかは、そいつの歪んだ顔つきと声の調子だけで おおよそ理解できていただろう。

「なんて可愛げのないツラをしたガキだ。この髪、梳かしたことがあるのか? 伸び放題 撥ね放題じゃないか。ハサミを持ってこい。俺が ばっさり切ってやる!」
俺が城戸邸に着いた その日。
髪が1本もないタコみたいな男が、自分に髪がないのを誇ってるんだか 僻んでるんだか、よくわからない態度で、じゃきじゃきと勢いよく俺の髪を切ってくれた。

汚くて可愛げのないガキであるところの俺が、唯一 マーマに似ている金色の髪。
床に散らばる金色の髪を見て、俺は、ここでの俺の生活がどういうものになるのかが わかったような気がしたんだ。
マーマとの優しい思い出とすら決別しなければならない日々が始まるんだと、俺は 思うともなく思った。
俺は、どこに行っても、誰にも歓迎されず 愛されない子供なんだと。


髪のないタコ野郎に比べれば、そこにいた子供たちは まだましだった。
俺が連れていかれた城戸邸ってところは、つまり、私兵を養成する施設だった。
訓練された傭兵を雇うと高額な金がかかるし、ボスへの忠誠は期待できないから、他に行き場のない子供を集めて、城戸のためだけに働く兵隊を自前で育てようって魂胆らしい。
そこには、俺と同じように親のない子供が たくさん集められていて、そして、そいつ等は俺に何も言わなかった。

ひどいことを言われないのと、罵倒もされないのと、どっちがましなことなんだろう。
侮蔑と無視とでは、どちらが より疎んじられていることになるのか。
その答えは わからないが、俺が誰にも好かれていないことに変わりはない。
100人近くいる子供たちの誰もが、俺を遠巻きに見るだけで、俺に話しかけてこない。
俺に 近寄ってくる子供も一人もいなかった。
俺は、大して歳の違わない子供にも嫌われるような子供なんだろう。
汚くて可愛げのない狂犬。
いる場所が変わったくらいのことで、人に好かれるようになるわけもない。
――が。

100人いる子供たちの中に一人だけ、俺に馴れ馴れしく近寄ってくる奴がいた。
女の子みたいな――いや、外見だけなら、へたな女の子なんかより はるかに綺麗なんだが、瞬は――そいつは瞬という名前だった――多分、きっと(頭が)少し足りないんだと思う。
俺の側に とことこと歩いてきて、にっこり笑ったけど、何も言わない。
俺は最初、瞬は言葉を喋れないのかと思った。
でも、他の奴等とは普通に話してるから――瞬は言葉を話せないんじゃなく、自分で会話を始めることができない奴なんだと思い直した。

そういう奴、時々いるよな。
何事にも受け身で、返事はできるけど、話の口火を切れない奴。
特段 話したいことがないなら、俺の側になんか来なければいいのに。
瞬のために、俺が話題を探して提供してやる義理はないんで、俺は黙っていたんだ。
黙って、俺がじっと見てると、しばらく不思議そうにしてたけど、結局 瞬は逃げていった。
睨んだつもりはなかったんだが――きっと 瞬の目には、俺は 病気の野良犬みたいに映っているんだろう。
噛みつくわけじゃないのに。

そんなことを何度か繰り返して――何度も繰り返して、いったい瞬は何をしたいんだろうと 俺が訝り始めていた頃。瞬が何をしたくて俺の側に来るのかが、やっとわかった。
何も言わずに 俺の前に立つだけでは何の進展もないと悟ったらしい瞬が、ついに自分から話の口火を切ったんだ。
「触っていい?」
と、瞬は俺に訊いてきた。

ほとんど不意打ちだったし、瞬がどこに触るつもりなのかも わからなくて、だから 俺は黙ってた。
瞬は それをOKの返事と解したらしい。
手をのばして、瞬は俺の髪に触れてきた。
「きらきら。どうしてこんなにきらきらしてるの」
俺が黙って動かずにいたら、すごく嬉しそうに笑って、瞬は俺に訊いてきた。――のかな?
あんまり返事を期待してるふうじゃなかったけど。

俺は一応、
「俺のマーマも こんな髪をしてた」
と答えた。
“瞬に訊かれたから”というより、“俺自身が答えたかったから”。――だったかもしれない。
日本に来てから半月近く、俺は、誰とも まともに話をしていなくて――声も言葉も ほとんど発していなくて、ずっと このままだと、いつか自分は口のきき方や 声の出し方を忘れてしまうんじゃないかっていう危機感みたいなものに囚われ始めていたところだったんだ、俺は。
それに、誰かにマーマの話をしたかった。

「マーマって、お母さんのことかなぁ。そうなんだ。お母さんも、こんな綺麗な髪をしてたんだ……」
これを、会話といっていいんだろうか。
会話にしては、どこか何かが変で、瞬は、俺に話しかけているというより、独り言を言ってるみたいだった。
俺の疑念は、あながち見当外れなものじゃなかったらしい。
瞬は 実際、俺と会話を成り立たせようなんてことは考えてなかったんだ。
瞬は、俺とは逆に、独り言のつもりだった呟きが 会話として成り立っていることに驚いて――素頓狂な声を上げた。
「って、日本語! 日本語、わかるのっ !? 」

『日本語、わかるの』って、何を言ってるんだろう、こいつは。
当たり前じゃないか。
日本語くらい わかる。
もしかして、こいつ、俺が日本語をわかってないと思ってて、その上で 俺に 日本語で話しかけてきたのか?
自分が日本語しか喋れないから?
かなり呆れて――呆れつつ 頷いたら、瞬は、悪びれたふうもなく、明るくて嬉しそうな笑顔になった。

「辰巳さんが名前も教えてくれなかったから、君は日本語がわからなくて、だから 話をすることもないだろうって決めつけて、名前も教えてくれなかったのかと思ってたんだよ」
瞬が俺の前にやってきて、にっこり笑って何も言わずにいた訳が、やっと俺にもわかった。
瞬は、俺が日本語を解するとは思っていなかったんだ。
だから、日本語で、
「名前は何ていうの?」
と訊くこともできず、ただ にっこりしてるだけだった。
今日 ついに話しかけてきたのは、それだけ俺の髪に触りたかったってことか。

「氷河」
「氷河。氷河だね。僕は瞬だよ」
知ってる。
みんなが呼んでたから。
『瞬、そんな得体の知れない奴の側には近寄らない方がいいぞ』だの、『不用意に近付いて、噛みつかれても知らねーぞ、瞬』だの。

ああ。
ってことは、あいつらも、俺が日本語がわからないと思って、勝手なことを言いたい放題してたわけか。
ほんと、嫌な奴等は、いつだって正直だよ。

「みんなに、教えてあげよう。氷河は日本語 喋れるんだよって。みんな、氷河は日本語がわからないんだと思って、ずっと遠巻きにしてたんだよ。氷河が綺麗すぎて近寄れなかったのもあると思うけど」
楽しそうに笑いながら 瞬がそう言うのを聞いて、俺は少し憂鬱になった。
『日本語がわからないんだと思って、ずっと遠巻きにしてた』なんて、嘘だ。
『日本語を話せないのを幸い、近寄らないようにしていた』んだ。
『綺麗すぎて近寄れなかった』なんて、どこから湧いてきた冗談だ。
みんな、瞬に、俺に近付くなって、忠告してたじゃないか。

瞬は優しい。
マーマみたいに優しい。
そして、マーマみたいに嘘つきだ、
瞬はマーマと同じに、優しい嘘をつく。
だから俺は、瞬の言葉を信じるわけにはいかなくて、それが少し悲しかった。






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