アンドロメダ島を取り囲んでいる海には、4月から5月の春期と、10月から11月の秋期の年に二度、サイクロンと呼ばれる熱帯低気圧――嵐が発生する時季があった。 瞬がアンドロメダ島に来たのは、10月から11月の嵐のシーズンが過ぎた直後。 だから、この春が、瞬がアンドロメダ島で初めて経験する嵐の季節――ということになる。 もちろん、嵐の季節といっても、毎日 嵐が発生するわけではないし、嵐が進む速度は速く、それは大抵 疾駆する馬のように 海の上を駆け抜け、どこかに消えてしまうのが常だった。 嵐は突然 海上で発生し、陸地に向かって進むので、アンドロメダ島に上陸することはない。 島と島にいる人間は、嵐の被害とは無縁、安全だった。 だが、海上では、朝は晴れていた場所が、昼には大暴風雨に見舞われているということが よくあった。 その日も、氷河が島を飛び立った時には、アンドロメダ島の周辺の海と空は穏やかだったのである。 瞬は 氷河の出立と帰島を心配してもいなかった。 氷河は いつもの通りに無事に自分の許に帰ってきてくれると信じていた。 午後になって、島の上は青空なのに、沖の空が墨を溶かしたように暗くなるのを見て初めて、瞬は不安に囚われたのである。 瞬の胸の中に生まれた灰色の雲のように漠然とした不安が、実際に痛みを伴って 瞬の胸を刺し傷付ける矢の雨を降らせ始めるのに、長い時間はかからなかった。 沖に広がる黒い空。凄まじい速さで走り去る暗雲。水平線が見えないほどの豪雨のカーテン。 それらが 突然、アンドロメダ島と 陸地の間の海を占領してしまったのだ。 氷河が海上を飛んでいる時刻。 進むも退くもならない、海の真ん中にいる時刻。 嵐の余波の風が吹きすさぶ浜で、瞬は空を見上げ、見詰め、そこに氷河の姿が現われるのを待ち続けた。 瞬にできることは、待つこと以外に何もなかったから。 だが。 夜になって雨風が止み、昨夜と同じように、空が月と星の絵を描き始めても、氷河は帰ってこなかった。 瞬はずっと空を見詰め続け、氷河の姿を求め続けていたのに。 瞬が、氷河の姿を見付けたのは、夜が明けてからだった。 空の中に見付けたのではない。 氷河は傷付いて、浜に打ち上げられていたのだ。 氷河は死に瀕していた。 背中に深い傷を負って海に落ち、そこから大量の血が流れ出たらしい。 氷河は昨日、島を飛び立つ時、果物を食べるためのナイフを手に入れてくると言っていた。 おそらく、そのナイフに雷が落ちて、氷河の身体に裂傷を作ってしまったのだろう。 雨が当たり、血が流れ、飛び続ける力を失って、氷河は海に落ちたのだ。 大量の血を失った氷河の身体は 冷たく冷えきっていた。 傷は塞がっていないのに、血が流れていないのは、氷河の体内に流れ出るほどの血が残っていないということか。 それでも 氷河は生きていた。 まだ死んではいなかった。 おそらく、死ぬわけにはいかないという、彼の意思の力だけが、彼の命を繋いでいる。 その証拠に、瞬が 氷河の名を呼び、その身体を抱きしめると、氷河の心臓は いつも通りに強く速い鼓動を打ち始めた。 自分の体温、氷河を呼ぶ声、氷河の身体を抱きしめる自分の胸や手の感触。 それらが 氷河の命の力を増すのだと確信して、瞬は氷河を抱きしめた。 抱きしめ続け、同時に、 「死なないで」 と訴え続けた。 「死なないで、氷河。僕のために死なないで。僕を悲しませないで」 いつも瞬の望みを叶えてくれた氷河は、今度も瞬の望みを叶えてくれた。 彼は死ななかった。 瞬のために、瞬を悲しませないために、氷河は死ななかったのだ。 もちろん 氷河を信じてはいたが、氷河が その願いを叶えてくれたことが、瞬は嬉しくてならなかった。 そして。 氷河が危篤状態を脱すると、それまで 混乱し泣きながら氷河を抱きしめていることしかできずにいた瞬も、冷静に 色々なことを考えられるようになってきたのである。 つまり、氷河に頼り切りの生活は、氷河のためにも自分のためにも よくない――と。 氷河の負担を減らし、互いに助け合い支え合わなければ、アンドロメダ島での二人の暮らしは いずれ破綻するだろう。 どんなに楽観的に考えようとしても、その予測を否定できる根拠を、瞬は見い出すことができなかった。 現に今、氷河の怪我につける薬一つないアンドロメダ島で、瞬は氷河の傷を癒すために、泉の水で彼の傷を洗い、湿った布で覆い続ける――という、原始的な処置しかできずにいたのだ。 「こうやって、傷口を ずっと湿らせておくと、治りが早いんだよ。薬もなくて、ごめんね。こんなことなら、薬草の勉強でもしておくんだった」 エティオピアの王城で学んできた歴史や経済の知識は、ここでは何の役にも立たなかった。 あまり好きではなかった剣術や戦闘術の教師たちが教えてくれた怪我や病の応急手当ての知識の方が、はるかに役に立つ。 だが、その知識も、瞬は ごく初歩的なものしか持っていなかった。 この島で これまで通りの暮らしを続けようと思ったら、瞬は もっと深刻な事態の発生を 極力避けなければならなかった。 早く飛べるようにならなければならないと焦る氷河を、だから 瞬は、懸命に 説得したのである。 「もう遠くに行かないで。どこにも行かないで。僕、自分の食べ物は自分で手に入れられるよ。氷河の食べ物も、僕が集めるから」 と。 「おまえに そんなことをさせられるか」 瞬にではなく 自分自身に腹を立てたように、氷河は瞬の提案を拒んだが、彼は 少なくとも 今は瞬の提案を受け入れるしかなかった。 今の氷河は、海を渡るどころか、宙に浮かび上がることさえできないのだ。 二人が生き延びるために、氷河は瞬に頼るしかなかった。 アンドロメダ島は不毛の地だったが、幸い、島を囲む海は豊かだった。 魚や貝の採集、氷河のための水草を集めることにも、大した手間はかからない。 もともと、ただ生き延びるためだけなら、氷河が 毎日 遠く陸地まで行き来する必要はなかったのだ。 「氷河が危ない目に遭うなら、僕はリンゴもオレンジもいらない。花もいらない。新しいサンダルなんか必要ない」 「瞬……」 二人で この島にいられなくなることに比べたら、花を見られないことが いったい何だというのだろう。 氷河の命が危険に さらされることに比べたら、瞬は、自分が飢えることの方が まるでつらくなかった。 豊かなアンドロメダ島の海のおかげで、二人が餓死する心配はなかったが。 「僕は、氷河と一緒にいられるだけでいいの。氷河に側にいてほしいの。氷河が生きていてくれるだけでいいの。僕の願いを、氷河は叶えてくれるよね?」 氷河の生命力もあったろうが、氷河の傷が通常では考えられない早さで癒えていったのは、むしろ氷河の完治を願う瞬の思いの強さゆえだったかもしれない。 やがて氷河の身体は 以前のように アンドロメダ島と陸地を行き来できるほどに回復したのだが、瞬の懇願に負けて、氷河は、毎日 陸地に通うのをやめたのである。 数日に一度だけ、それも どうしても必要なものがある時にだけ、瞬を説得し許可を得て、氷河は島を離れた。 『新しい服も新鮮な果物もいらない』と訴える瞬を、氷河は、『飛ばずにいると、身体が なまるから』と説得して 飛び立たなければならなかった。 人間の――命ある者の営みは、意外と単純なことの繰り返しである。 食べ物を手に入れて、それを食べ、眠って、遊んで、他愛のない会話や触れ合いを楽しむだけ。 そして、だが、その単純なことの繰り返しを 繰り返し続けることが難しいのが、人生というもの、人世というものらしかった。 アンドロメダ島での二人の日々に終止符を打つものは、どんな前触れもなく、ある日 突然 二人の前に現れた。 |