瞬がリビングルームやダイニングルームに鏡を置くようになったのは、家事や他の用事をしている時にも、ナターシャから目を離さずにいるためだった。 視覚で確認しなくても、ナターシャの安否は気配で把握できるのだが、無事な姿を目で見ていることより安心できる確認方法はないし、目視による確認は危険行為に及ぼうとしているナターシャを事前に知覚して、事故の発生を未然に防ぐことができる。 ナターシャは とてもいい子なのだが、決して大人しい子供ではなかったのだ。 リビングルームの壁に掛けてある鏡は、取り外して 卓上で使用することもできるタイプのものだった。 そして、ナターシャは、もう15分以上、センターテーブルの上に置いた鏡に映る自分と睨めっこをしている。 ナターシャは、姿見の前に立って 全身を確かめることは、日に幾度もするが、その分、自分の顔そのものは 洗顔時に洗面台の鏡を見るだけで、特段の注意を払うことが少なかった。 ナターシャは、顔の造作より、洋服が自分に似合っているかどうか、スタイルや姿勢、バランスやポーズ等、全身図に重きを置くタイプの少女なのだ。 そのナターシャが、いよいよ 顔の造作と表情に関する研究を始めたのだろうか。 「ナターシャちゃんは、可愛い笑い方の練習を始めたの?」 ケーキは焼き上がったが、ウィークエンド・シトロンは冷めるのを待って、アイシングをしなければならない。 瞬は、オーブンから出したレモンの香りのするケーキをテーブルに置いて、いったんキッチンを離れ、ナターシャのいるリビングに移動した。 瞬が鏡の中のナターシャの顔を覗き込むと、そこにあったのは、可愛い笑顔というより 可愛い しかめっ面。 「むー……」 眉根を寄せたり、唇を尖らせたり。 ナターシャが行なっているのは、どう見ても、可愛らしい笑顔を作る練習ではなかった。 しかめっ面を作る練習でないなら、表情筋のエクササイズとしか言いようがない。 が、ナターシャは、そのどちらをしているつもりもないらしかった。 「あのね。ナターシャ、昨日、パパと一緒に週末ケーキの材料を買いに行ったノ。そしたらね、肩を前や後ろや右や左に揺らしながら歩く変なお兄ちゃんが、あっちから歩いてきたノ。パパと一緒でなかったら、逃げたくなっちゃうようなお兄ちゃんダヨ。それでね、反対側から、おばあちゃん車を押してる おばあちゃんが歩いてきたノ。おばあちゃん、歩道の真ん中を ゆっくりゆっくり歩いてたノ。それでね、変な歩き方するお兄ちゃんが、ぶつかったわけじゃないのに、そのおばあちゃんを とっても悪い呼び方で呼んで、端っこを歩けって怒鳴って、おばあちゃんを脇に押しやろうとしたんダヨ」 ナターシャの言う“おばあちゃん車”というのは、歩行に難のある老人が使う手押し車、俗に シルバーカーと呼ばれる歩行補助車のことである。 そして、ナターシャの説明が 少々 まわりくどいのは、常日頃から 瞬に 乱暴な言葉を使わないように言われているため、「柄の悪いドサンピンが、歩くのが遅い老婦人を『クソババア!』と怒鳴りつけたんダヨ」と説明することが許されないからだった。 ナターシャには不自由を強いているかもしれないが、『クソ』と『ババア』は、『馬鹿』『死ね』『殺す』等と並ぶ使用禁止用語だった。 ナターシャは、今日も、マーマの言いつけを守る いい子である。 「そしたら、パパが、ぱっと腕をのばして、倒れそうなおばあちゃんを支えてあげて、もう片方の手で 変な歩き方をするお兄ちゃんの腕を掴んだノ。パパに腕を掴まれたお兄ちゃんは、何か大声をあげて 騒ごうとしてたみたいだったヨ。デモ、パパが その変なお兄ちゃんを見て、片方の眉をちょっと上げたら、変なお兄ちゃんは 急に泣きそうな顔になって、逃げてっちゃったノ。パパは、何もしてないノニ。片方の眉毛をちょっと動かしただけだったノニ。パパは、すごくカッコよかったノ」 氷河に助けられた おばあちゃん車のおばあちゃんは、『アラアラ マアマア、オトコマエのガイジンサン。ドーモアリガト、サンキューサンキュー』と、氷河に幾度も礼を言い、ナターシャのことも『可愛らしいお嬢ちゃん』と褒めてくれたらしい。 そして、ナターシャは、改めてパパのカッコよさに感動したのだそうだった。 「それでネ、ナターシャも、眉毛を片方だけ動かすのをやってみたいって思ったノ。そしたら、ナターシャも、パパみたいに ちょっと見るだけで 悪者を退治できる、強くてカッコいいナターシャになれるデショ? デモ、できないノ。ナターシャ、眉毛を片方だけ動かすのができないんダヨ!」 ナターシャは、可愛い笑い方の練習ではなく、眉毛を片方だけ動かす練習をしていたのだったらしい。 だが、それが どうしても上手くいかず、しかめっ面になっていたらしかった。 「それは……悪者を睨みつけるには、片眉だけを動かせるのは、ちょっと恐い感じがしていいかもしれないけど、ナターシャちゃんが それをできるようになる必要はないでしょう? ナターシャちゃんのことは、いつも氷河が守ってくれるんだから。ナターシャちゃんは、悪者を退治できる強いナターシャちゃんより、笑顔の可愛いナターシャちゃんを目指した方がいいんじゃないかな?」 「瞬の言う通りだ。氷河も、恐いナターシャより、可愛いナターシャの方が嬉しいと思うぞ」 突然 現れた瞬の意見への賛同者は、某天馬座の聖闘士だった。 「星矢?」 瞬が、『どうして、ここに?』と尋ねる前に、 「すっげー、いい匂いがしたからさあ」 という答えが返ってくる。 星矢は、ウィークエンド・シトロンの香りに釣られて、仲間の家まで光速移動してきたらしい。 瞬が、『本来は 地上の平和を守るために使うべき聖闘士の力を、そういうことに使うのは感心しない』と言う前に、 「聖闘士の力を、ケーキのために使うとは」 と言いながら、紫龍が登場する。 ケーキの匂いに釣られる星矢を注意するために 聖闘士の力を使う紫龍も、あまり褒められたものではないような気がしたのだが、瞬は、あえて沈黙を守ることにした。 仮にも紫龍は、聖闘士の善悪を判断する天秤座の黄金聖闘士。 判断される側の身で、彼に意見することは おこがましいというものだろう。 ドアを開けずに来客が二人。 こんなことには 慣れっこのナターシャは、突然現れた二人に驚きもしない。 最初から彼等が その場にいたかのように、ナターシャは星矢への反駁に及んだ。 「デモ、ナターシャは、パパの真似したいヨ。ナターシャがパパとおんなじだったら、パパも喜ぶデショ?」 「いや、氷河は喜ばない。瞬と“おんなじ”なのなら ともかく、氷河と“おんなじ”じゃあなあ」 「うむ。もしナターシャが氷河そっくりになったら、氷河は むしろがっかりするだろう。氷河の好みは、“可愛くて優しい”だ」 「ん……」 星矢や紫龍の意見に異論を唱えることは、ナターシャにはできなかったのだろう。 ナターシャの目的は あくまで、“パパに喜んでもらう”であって、“パパに似たナターシャになる”ではなかったので。 ナターシャが瞬に、 「マーマ、眉毛を片方だけ動かすの、できる?」 と尋ねたのは、であるからして、“念のための確認”だったに違いなかった。 「眉毛を片方だけ?」 瞬は、そんなことをしようと思ったこともなかった。 初めての挑戦。 「ん……と、こんな感じ?」 ナターシャに尋ねながら、瞬は右の眉を ぴょこっと上にあげてみせた。 ナターシャの要望に応えて、片眉だけを動かしてみせたというのに、ナターシャは全く嬉しそうではない。 どうやら、それは、 「ははは。瞬がやると、悪者撃退どころか、普通に可愛いだけじゃん」 という現実が、ナターシャには想定外のことだったから――らしい。 ナターシャは、片眉だけを動かすことができれば、その人間は 柄の悪いチンピラを撃退した時のパパのようになれると、疑いもなく信じていたのだ。 全く予想していなかったマーマの可愛らしい顔に、ナターシャは咄嗟に どういう反応を示せばいいのかがわからず、軽く混乱してしまったようだった。 「ま、瞬みたいに 可愛い一辺倒なのも、敵に油断させるには いいかもしれないけど、それって、滅茶苦茶 卑怯な戦い方だよな」 面白い見世物を見せてもらったというように弾んでいた星矢の声が、突然 ぶつりと途切れたのは他でもない。 彼に それができなかったからだった。 瞬が難なく片眉を動かしてみせたので、自分もやってみようとしたのに、星矢の眉は 左右一緒に動くことしかしてくれなかったのだ。 「え? なんでだ?」 星矢が、ほとんど奪い取るように ナターシャから鏡を借りて、その鏡に向かって百面相を始める。 鏡に映る顔の角度を変えてみたり、左右交互にウインクをしてみたり、指を使って無理矢理 片眉だけを引き上げてみたり。 色々なやり方で、星矢は片方の眉だけを動かそうと奮闘したのだが、星矢の眉は どうあっても左右一緒にしか動いてくれなかった。 「片目はつぶれるのに、片眉 動かすのができないなんて、それって変だろ。なんでだよ。どういうことだよ!」 パパを追いかけるナターシャのように、星矢の右眉を追いかける星矢の左眉。 星矢の百面相は、最終的に、星矢たちがこの場にやってくる前のナターシャと同じ しかめ面になってしまった。 「聖闘士が自分の身体の筋肉を自在に動かせないというのは、問題なのではないか?」 そう言いながら、紫龍は――紫龍も、たやすく右眉だけを動かしてみせた。 「えーっ、できないの、俺だけかよ? なんでだっ」 それを見て いよいよ慌てた星矢が、再び 鏡相手に格闘を始める。 しかし、いつまで経っても、星矢の眉は左右が仲良く同時に動き続けるばかりだった。 仲間内で 自分だけができない――という事実は、それが何であれ、星矢には甘受できないことであるらしい。 「くそっ、動けっ。動けっ、片っぽ! こら、動けっ」 悪戦苦闘を続ける星矢は、だが、瞬にとっては好都合なことだった。 「ほら、ナターシャちゃん。星矢もできないんだって」 だから片眉を動かせるようになる必要はない――というのは、全く論理的ではないのだが、できない仲間がいれば、ナターシャも諦めがつくだろう。 そう考えて、瞬は、片眉運動体得修行の中断を ナターシャに提案したのだが、片眉運動ができない仲間がいても、ナターシャは 全く嬉しくなかったらしい。 もちろん、片眉運動ができない仲間の存在は、片眉運動体得を断念する理由にもなり得ない。 「マーマができることは、ナターシャもできるようになる! その方が、パパも喜ぶに決まってるモン !! 」 パパが喜ぶことか、否か。 それがナターシャの人生の指針であり、あらゆる事象の判断基準だった。 パパが喜ぶことは、万難を排して やり遂げる意義と価値があるのだ。 「氷河は、片眉を動かせるから、瞬を好きなわけじゃないと思うぞ、ナターシャ」 「そうそう。きっと、眉毛を片っぽだけ動かせないのは、俺たちが 無邪気で あどけない子供だからなんだよ。俺とナターシャは、純真なイイコなんだ」 紫龍や星矢が何を言っても無駄だった。 それをパパが喜ばないわけがないと、ナターシャは決めつけている。 「マーマができることは、ナターシャもできるようになる!」 ナターシャの決意は、強固だった。 |