パウンドケーキを切り分け終えた瞬が、既にケーキナイフを手にしていなかったのは、氷河にとって幸いだったかもしれない。
“生身の拳の方が恐い”は、十数年間 変わることのない瞬への評価だが、凶器を持つ瞬は 別の意味で十二分に恐いのだ。
「氷河、本気で言ってるの?」
氷河に尋ねる瞬の声は、僅かに震えていた。
言葉通り、氷河の本気(むしろ正気)を疑って。
ナターシャのパパとマーマは、あくまで ナターシャのパパとマーマ(アテナの聖闘士である前に、彼女のパパとマーマ)だが、“氷河が好きで憧れている人”は、それが一輝であれカミュであれ、まず第一に アテナの聖闘士である。
ナターシャは、自分では気付いていないかもしれないが、『聖闘士になりたい』と言っているのだ。

ナターシャを聖闘士に。
現時点で 自分が女の子であることを楽しみまくっているナターシャが、女であることを捨てなければならないアテナの聖闘士になりたいと望むことなど 万に一つもないとは思うが、まかり間違って ナターシャが そんなことを言い出しても、氷河は絶対に反対するだろうと、瞬は思っていた。
ナターシャの身体は、普通の子供とは違う――普通の子供より はるかに脆弱なのだ。
ナターシャの心身のことを考えたら、彼女の親は彼女の親として、彼女の その夢を 何としても諦めさせなければならない。
それが 普通の親だろう。

氷河に“普通”を求めることの愚は、瞬とて承知していたが、こればかりは氷河にも 普通になってもらわなければならない。
瞳を輝かせて、家族団欒のための週末ケーキに挑み始めたナターシャと星矢を素早く横目で確かめてから、瞬は氷河を睨みつけた。
平生であれば、わざとらしく大仰に 震え上がってもせる氷河が、今日は 瞬の睥睨に出会っても 妙に のんびりした視線を返してくる。
あくまでも のんびりした口調で、氷河は――氷河の それは、まるで、いきり立つ瞬を なだめ諭そうとする国際紛争調停官のようだった。
彼自身が、紛争の当事国の一つであるというのに。

「それは確かに、簡単になれるものではないし、たとえ なることができても、それで一生を安穏と暮らせるようになるわけでもない。必ずしも多くの人間に支持され認められるとは限らないし、一生 研鑽の日々が続くことになるだろう。だが、ナターシャが本気で なりたいというのなら、俺は賛成するし、俺にできる限りの協力をするぞ」
「氷河……」

『信じて貫けば、夢は必ず叶う』が、氷河の座右の銘である。
挫折も失敗も不幸も絶望も味わい尽くし、それでも 氷河が必死に立ち上がり、立ち直り、その上で 今の彼があることも、瞬は承知していた。
いつも いちばん近くで氷河を見てきたのは瞬なのだ。
氷河の強さも弱さも厳しさも甘さも、瞬は誰よりもよく知っていた。
夢を持たなかったら 人は終わりだと、氷河は信じているのだ。
それは、ある意味では、とても正しい――と、瞬も思う。
しかし、ナターシャの身体のことを思うと、瞬は、医師としても ナターシャのマーマとしても、ナターシャの夢を 諸手を上げて歓迎することはできなかった。
そんな瞬の気持ちを知らないはずがないのに、氷河は あくまで 国際紛争調停官の職務を果たそうとする。

「そうだな。何か楽器を演奏できた方がいいだろうから、早めに いい先生につけてやろう。ピアノの他に もう一つ、管楽器か弦楽器。ヴァイオリンかフルートあたりがオーソドックスなところだろうが、ハープや竪琴というのも 異色でいいかもしれん」
「ちょっと待って」

なぜ ここで ヴァイオリンやフルートが出てくるのか。
瞬には、氷河の話の内容と 目指すところが、突然 見えなくなってしまったのである。
確かに、デストリップ・セレナーデやら デッド・エンド・シンフォニーやら、楽器を演奏しながら戦う聖闘士や海将軍はいたが、先に戦い方を選んでから聖闘士になろうとする聖闘士志願の話など、聞いたこともない。
『双子座の聖衣のバケツヘッドが好みじゃないから、魚座の黄金聖闘士になりたい』と言い張る双子座生まれのセブンセンシズ持ちより、更にあり得ない。
氷河の理解不能話を聞かされて初めて、瞬は、自分たちの会話の前提が違っている可能性に思い至ったのである。
一度深呼吸をして 心を落ち着かせてから、改めて氷河に尋ねてみる。

「氷河。氷河が好きで憧れていた、片眉を動かせる人っていうのは誰」
その質問に対する氷河の答えは、あさって どころか 百年も昔のソ連邦から返ってきた。
「エフゲニー・ムラヴィンスキーに決まっているだろう。己れの芸術を守るために、あのスターリンにも屈せず、生涯 共産党員にもならなかったのに、50年の長きに渡って レニングラード・フィルの常任指揮者の地位に在り続けた、20世紀最高の指揮者。かっこよくて、かっこよくて、あの片眉を上げて周囲の人間を牽制するテクも、ムラヴィンスキーのようになりたくて、俺は 鏡相手に必死に練習したんだ」
「は?」
『エフゲニー・ムラヴィンスキーに決まっているだろう』と氷河は言うが、それは いったい、いつ、どこで どのように決まったのだろう?
ムラヴィンスキーの名と 晩年の姿くらいは、瞬も知っていたが、彼が眉毛を片方だけ動かせる男だったという事実を知っている人間の数は、現在の世界人口の1パーセントにも届くまい。

「氷河の憧れの人って、カミュ先生でも兄さんでもないのっ !? 」
「カミュはともかく、一輝なんて、どこから湧いてきた名前なんだっ」
氷河には、ムラヴィンスキーよりも 瞬の兄の名の方が非常識で、奇天烈で、唐突感にあふれたものだったらしい。
彼は、両眉を勢いよく吊り上げた。

ともかく、これで謎は解けた。
氷河は、ナターシャが聖闘士になることではなく、オーケストラの指揮者になりたいという夢に賛同し、協力を惜しまないと言っていたのだ。
音楽家というものも、もちろん身体を使う職業ではあるだろうが、アテナの聖闘士ほどの過酷さはあるまい。
瞬は、ナターシャの夢に ほっと 安堵の胸を撫で下ろした。
安堵の胸を撫で下ろしてから、『オーケストラの指揮者になる』というのは、ナターシャの夢ではなく、ナターシャに投影された氷河の夢であることを思い出す。
余裕と落ち着きを取り戻して、瞬は ナターシャの方に向き直った。

ナターシャは、自分の分のウィークエンド・シトロンと格闘している。
その横で、自分の分のケーキを食べ終えた星矢が、未だ手つかずの瞬のケーキを狙っていた。
週末ケーキのテーブルにふさわしい ほのぼのとした光景。
ナターシャには、氷河の夢と憧れとは違う、彼女自身の夢と憧れがあるはずだった。






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