「でも、どうして私に白羽の矢が立ったんですか? それこそ、蘭子さんに――」 頼めばいいではないか――という言葉を、声にする直前で、吉乃は喉の奥に押しやった。 氷河が、それには諾と言わないのだろう。 瞬が困ったような微笑を浮かべ、吉乃に頷いてみせる。 「氷河の立場を尊重して、ね。それに、吉乃さんが美術系の道に進むことを希望していると、デスマスクさんから聞いていたので」 「ああ……」 デスマスクの名を出されて、吉乃は浮かぬ顔になった。 「どうかなさったんですか? デスマスクさん、吉乃さんに とても好意を抱いたようで、憎まれ口を叩きながら、すごく吉乃さんのことを褒めていましたよ。まっすぐで、明るくて、人を惹きつける力があるって」 褒め言葉部分は 今ひとつ ピンとこないが、憎まれ口部分は、あの蟹座の黄金聖闘士が どんな口調、どんな態度で言ったのかが、容易に想像できる。 吉乃は、決してデスマスクを嫌いなわけではなかった。 決して 嫌いではなく、むしろ好意を抱いていたのだが。 「箱根の強羅で、私、デスマスクさんと一緒に手びねりの工芸実演に挑戦したんですよ。手びねりなんて初めて見たっていうデスマスクさんは、陶芸教室の先生も驚くほど完成度の高い作品を作ったのに、私の作品は ぐちゃぐちゃの めちゃめちゃ。陶芸の分野に進みたいわけじゃないんですけど、造形分野全般に関して、私、自信を失っちゃって……」 「あ、それで」 その時のことは、デスマスクの憎まれ口部分に含まれていて、おおよその経緯は聞いていたのだろう。 瞬は、少し 乾いた感のある微笑を、その目許に浮かべた。 「デスマスクさんやアフロディーテさんや――シュラさんも そうなんですけど、彼等は、大抵のことを並み以上にこなせますから…」 「そうでないと、黄金聖闘士には なれないってことですか?」 「体力と運動能力だけで なれるものでないことは確かですけど……。彼等は、僕や氷河みたいな現場の叩き上げではなくて、ほんの小さな子供の頃に その才能を見込まれて 黄金聖闘士になることが決まっていたエリートなんですよ。言ってみれば、黄金聖闘士のキャリア組」 「えーっ、瞬先生がノンキャリアで、デスマスクさんがキャリアなんですか? 逆でしょう。イメージ、逆」 どちらかを褒め、どちらかを腐す意図はなく――それが、吉乃が抱く率直で素直なイメージだった。 少なくとも、デスマスクと瞬を比べたら、どういう見方をしても、優等生は瞬で、デスマスクは落ちこぼれである。 瞬は、軽く横に首を振った。 「イメージは どうかわかりませんが、事実は そうなんです。彼等は揃って天才肌で――同じ黄金聖闘士でも、僕や氷河たちノンキャリア組とは、戦闘力や小宇宙の大小強弱とは違うところで 一線を画するものがあるように感じます。彼等は、最初から高みにいるのが自然で当然だった人たちなんです。でも、多芸は無芸と言うでしょう。何でも器用にこなせるのが仇になって、かえって、夢中になれるものを見付けることができないでいるようですよ」 「贅沢な悩み……」 全く無意識のうちに、盛大な溜め息が生まれる。 あの素直でないデスマスク、外見以上に中身が浮世離れしていたアフロディーテ、常識と食い意地が 世間一般から ずれまくっているシュラ――が、エリートな聖闘士の世界。 常識人を自負する吉乃には、その世界は ほぼ異次元だった。 異次元を垣間見せられたファンタジー映画の登場人物のような顔になった吉乃を見やり、瞬が 話題変更の微笑を浮かべる。 「吉乃さんは、なぜ 美術関係の道に進もうと思われたんですか?」 「あ、それは、私のお父さ……父が――」 あの父もエリートで、天才たちの仲間なのだろうか。 父には、どちらかといえば、瞬先生や氷河さんの お仲間であってほしいと、胸中で こっそり、吉乃は思った。 「小さな頃に、冬の早朝、神社の境内で、お父さ……父の居合の演武を見たんです。鞘から剣を抜き放って、見えない敵との勝負は一瞬で つき、納刀。空気が ぴんと張り詰めてて、すごく綺麗で、私はその場で、私も居合をやってみようと思ったんですよ。だけど、私、そっちの才能が まるでないみたいで……。何ていうか、緊張感を保てないタチなんですよね。だから、自分でやるのは諦めて、お父さ……父を」 「お父さんでいいですよ」 瞬が微笑むので、吉乃は その言葉に甘えた。 「だから、私、お父さんの あの美しい技を形にして、人に伝えたいと思ったんです。でも、不思議なことに、写真や動画じゃ伝わらないんですよ、あの空気。空気は見えないから――なのかな。映像機器では捉えられない。それで、見えないものは、そのイメージを絵や彫刻という形にするしかないと思ったんです。それを実現するのが、私の夢」 吉乃の進路志望理由を聞いた瞬が、今の時季用だった その微笑を、今から ちょうど2ヶ月ほど前の 根雪を融かす春の頃のように温かい微笑に変える。 その微笑に ふさわしい眼差しが、吉乃に向けられた。 中学のクラスメイトには、『そんな理由で? このファザコンがぁ!』と一蹴された話である。 それを、瞬は、生まれたばかりの子猫か子犬を両手で包むように やわらかい感触で聞いてくれていた。 吉乃は、素直に嬉しかった。 「素敵な夢ですね。アルデバランさんの生む空気、ですか。空気を描くというと、印象派のイメージですけど、ベラスケスが 背景に物を何も描かない肖像画を何点も描いていましたね。あれは、まさに空気が人物の気品を際立たせている作品でしょう。吉乃さんにも いつか、そんな作品が作れるようになると思いますよ」 「そ……そうかな」 瞬に そう言ってもらえると、必ず それが実現する時がくるような気がしてくる。 デスマスクが本当は“いい人”だということは わかっているのだが、デスマスクが相手だと、こうはならない。 天賦の才で上り詰めた人を天才と呼び、苦労を重ねて 高い地位に就いた人を 凡夫と呼ぶのなら、より多くの人に慕われ愛されるのは、苦労人の凡夫の方だろうと、凡夫には見えない凡夫に対して絶大な好意を抱いて、吉乃は思った。 瞬が、彼と同じように凡夫であるらしい仲間を見て、楽しそうに笑い出す。 「氷河が、吉乃さんのお父様が羨ましくてならないようですよ。それほどまでに娘に慕われる父親になりたいって」 「え」 瞬に言われて、吉乃が視線を氷河の方に巡らせた時には既に、水瓶座の黄金聖闘士は吉乃を見ていなかった。 ナターシャが両手で氷河の右手を握りしめ、パパの顔を見上げている。 「べらすけすって、ナターシャの絵を描いてくれた人? パパの絵なら、ナターシャがいっぱい描いてあげるヨ!」 “娘の父親”という人種は、絵を描いてもらうなら、“画家の中の画家”と謳われた巨匠より、娘の手に成るものの方が はるかに嬉しいらしい。 「ん、そうか」 見た目の表情は ほとんど変わっていないのだが、氷河が愛娘の言葉を喜び、有頂天と言っていいレベルで機嫌をよくしていることが、吉乃にはわかった。 ほぼ同イタミングで、なぜか瞬の方の気持ちが沈んだような気がして、吉乃は 僅かに眉根を寄せたのである。 「夢……か……」 低く そう呟く瞬の視線は、氷河からもナターシャからも吉乃からも逸らされ、芝生広場を囲む遊歩道の隙間で たくましく根を張っている雑草に向けられている――ように、吉乃には見えた。 ナターシャは、パパに肩車をねだっている。 全く躊躇しなかったといえば嘘になるのだが、訊かずにいることができなくて、吉乃は瞬に尋ねてしまっていた。 「瞬先生の子供の頃の夢は何だったんですか? 瞬先生、本当は戦うのが お好きじゃないんでしょう? 第一希望が聖闘士だったわけじゃないんですよね? お医者様になりたかったんですか?」 と。 短い沈黙。 「僕は、小さな頃は、何かになりたいなんて、考えたこともなかった……かな」 しばしの間を置いて返ってきた瞬の答えを聞き、切なげに伏せられた瞬の瞼を見て、やはり訊くべきではなかったかと、吉乃は 自身の軽率と好奇心を後悔した。 だが、訊いてしまったものは、訊かなかったことにはできない。 瞬は、いつも通りの微笑を浮かべている いつもの瞬に戻り、自身の子供の頃の夢の周辺について語ってくれた。 「ううん、夢はあった。花になりたかったな。小さな花」 「は……花?」 |