「花になりたいなんて、馬鹿だ」
確信に満ちて 瞬にそう言ったのは、氷河だった。
城戸邸のトレーニングジムのマットが空かないので、庭で、瞬の兄を相手にトレーニングという名の喧嘩をし、手足のあちこちに擦過傷を作った氷河。
瞬が、その手当てをしている時。
手入れの行き届いている城戸邸の庭には、野草の1本も生えておらず、ここでも自分の夢は叶わないと嘆いた瞬への氷河の返事が それだった。
『花になりたいなんて、馬鹿だ』

ぶっきらぼうだが優しい――もしかすると、城戸邸に集められた子供たちの中で いちばん優しい子かもしれないと思っていた氷河に 初めて投げつけられた厳しい言葉に 驚いて、瞬は彼の腕の傷を洗う手を止めたのである。
氷河は、かなり本気で、瞬の夢に憤っているようだった。
「おまえが花になったら、駄目だろう。せっかく、こんなに可愛くて優しいのに。花は綺麗だけど、自分だけじゃ、人に優しくなんかできないんだぞ。優しい人が誰かに贈って初めて、花も優しいものになれるんだ」
「花は、自分だけじゃ、人に優しくなんかできない……?」

そんなことを、瞬は 考えたことがなかった。
兄に迷惑をかけないものになりたいという思いばかりが肥大して、自分に何ができるのか――などということは考えもしなかったのだ。
考えようとしたことさえない。
考えることさえ思いつかなかった。
自分に何かができる――などということは。
何かをしたいという気持ちは いつも瞬の心の奥底に存在したが、実際に それが何らかの形を持つことがあるとは、瞬は考えたことがなかった――考えられなかったのだ。これまでは。

「俺は、おまえに人間でいてほしい。花になったら、こんなふうに怪我の手当てもしてもらえなくなる」
「氷河……」
城戸邸の水飲み水栓前のベンチには、瞬の手当てを待つ怪我人たちが ずらりと座っている。
氷河の隣りに座っていた星矢が、
「俺も、瞬に花になんかなられたら困るぜー」
と、氷河に同調してきた。
賛同の意を示すために挙げられた星矢の二の腕には、木の幹に擦ってできた擦り傷が幾本もの赤い線を描いている。

「保健室の意地悪ねーちゃんの手当てと瞬の手当てじゃ、おんなじ手当てなのに、治りの速さが 全然 違うんだよな。あの ねーちゃんが“面倒だから来るな”オーラ全開なせいもあると思うけどさ。傷を洗って、その傷をカバーするだけ。やってることは まるっきりおんなじなのに、瞬にしてもらう方が早く治るんだよな。瞬が花なんかになったら、そりゃ 可愛い花になるだろうけど、みんな困るだろ。一輝が いちばん困るかな。あいつが いつも、いちばん傷だらけだから」
「あ……」

『おまえに人間でいてほしい』
『瞬が花なんかになったら、みんな困るだろ』
仲間たちの言葉は、瞬には思いがけないものだった。
衝撃的と言っていいほどに。
自分が 人の役に立つ存在になり得る可能性に、その時 初めて、瞬は思い至った。

「僕、役立たずじゃないの……?」
「は? なに言ってんだ? 少なくとも、この城戸邸じゃ、おまえが いちばん役に立ってる奴だろ。いや、いちばん役に立ってるのは、食堂のおばちゃんかな。で、いちばん役に立ってないのが、辰巳と沙織おじょーさま」
「おい、星矢」
星矢の隣りにいた紫龍が、星矢の発言内容より 声の大きさに 渋面を作る。

「失礼なことを言うな」
と、星矢の発言内容に異議を唱えたのは、氷河だった。
もっとも、その“異議”は、
「あれは役に立たずではなくて、害悪だ」
というもので、決して 星矢の意見に反対するものではなかったが。
「おまえが いちばん失礼だ」
「ただの事実だ」


今となっては、アテナに聞かれずに済んでよかったと思うばかりのやりとりだったが、あの やりとりが、瞬の夢の進む方向を転換させたのだった。
花は、思いを託して贈れば 喜ばれるし、そこに咲いているだけで 見る人の心を癒すこともあるかもしれないが、自分から能動的に動くことはできない。
花になってしまうと、仲間たちの怪我の手当てをすることはできない。
強くなって、兄を守れる自分になることもできない。
大切な人がいるなら、自分も人間でいる方がいい。
人間でいればこそ、大切な人のために何かができるのだ――。






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