恋の勝率






英国ブックメーカー ――いわゆる賭け屋は、1790年代の英国(当時は、グレートブリテン王国)のニューマーケット競馬場で始まった。
競馬から始まったブックメーカーの賭けの対象は、徐々に様々なプロスポーツや大学スポーツを含むようになり、やがてスポーツ以外の諸事全般へと広がっていく。
各国の王室で 次に生まれる王族は王子か王女か、今年のクリスマスには雪が降るかどうか等々、どんなことでも すべてが賭けの対象になる――賭けの対象にならないものはない。
その英国ブックメーカーで、昨今、最も話題になっている賭けは、ある人物の性別に関する賭けだった。

ドーバーを隔てたフランスでは、昨年 革命が起き、国王一家が市民の手によってベルサイユ宮殿からテュイルリー宮に移送されるという大事件が起きている。
しかし、さすがに『フランスの行く末』『フランス国王夫妻の去就』を賭けの対象とするのは 少々不謹慎、政治色が濃すぎ。
そんなものを賭けの対象にして、フランスに王妃を送り込んでいるオーストリアのハプスブルク家や (一応)絶対君主の身で進歩的な啓蒙君主を気取っていたロシアの女帝、親フランスの国々、反フランスの国々、幾多の国々の支配者・権力者の神経を逆撫でするのは危険と判断したのだろう。
英国ブックメーカーは、今のところは、フランスの未来に関してはノータッチを決め込んでいる。

これは 言い換えれば、そんなことに気を配らなければならないほど、ブックメーカーの顧客に各国の王侯貴族が多いということだった。
もちろん、ブックメーカーは、誰が賭けに参加し、どれほどの額を賭けているのかを公開することはない。
それらの情報の公開を ほとんどの顧客が望まないという事情もあるが、それ以上に それらの情報の公開は、賭けの不正と政治的混乱を引き起こす原因になりかねないのだ。
オーストリアのハプスブルク家の一人が、フランス国王妃の処刑“有”に大金を賭けていることが公になったら どうなることか。
王政を批判し民主制を謳って 市民の支持を受けている進歩的思想家が、フランス革命の失敗に賭けていることが一般に知れたら、どうなることか。
ともかく、フランスの革命に関しては見ざる聞かざる言わざる。
それよりも 今は、シュヴァリエ・デオンの性別である。

話題の人 シュヴァリエ・デオン こと デオン・ド・ボーモン、別名 リア・ド・ボーモンは、1728年、フランスのブルゴーニュに生まれたと言われている。
長じて、ルイ15世の私的スパイ機関の一員となり、フランスのスパイとして活動を開始。
ロシアがエリザヴェータ女帝に統治されていた頃には、リア・ド・ボーモンという名で、女帝付きの女官になり、親フランス派ロシア貴族とフランス王室の連絡係として働いていたらしい。
1762年、34歳の時、英国・プロイセン連合軍との7年戦争に竜騎兵の隊長として参戦し負傷、シュヴァリエ(騎士)の称号を与えられている。
戦争自体はフランス側の敗北に終わり、終戦後、35歳の時に 国王の特命全権大使として英国に渡ったデオンは、現在もロンドン在住。
昨年 故国で起きた革命のために、へたをすると永遠にロンドン在住ということになるかもしれない。
彼(彼女)の性別に関する賭けは、故国で革命が起きたために収入が途絶えたデオンが ブックメーカーの企画に乗って企画されたもの――と、まことしやかに噂されていた。


氷河が、ロシア帝国の女帝エカテリーナ2世の命令でロンドンのジョージ3世の宮廷に渡ったのは、シュヴァリエ・デオン こと デオン・ド・ボーモン こと リア・ド・ボーモンの性別を確認するためだった。
それというのも、女帝が、デオン・ド・ボーモン こと リア・ド・ボーモンの性別を“女性”に賭けているから。
その額、なんと100万リーブル。
中規模の城を一つ建造できる額である。
女帝は、それを賭けに勝って倍にして、ペテルブルクに新しい美術館を建てる計画を立てているのだ。

ロシアの現女帝が、シュヴァリエ・デオンの性別を“女性”に賭けているのは、もちろん、今から30年も前のエリザヴェータ女帝時代のこととはいえ、自国の君主に女官として仕えた人物が男性であっては困るから――という事情もあった。
女帝の愛人は 何人いてもいいが――愛人は何人もいるのが普通だが、男の女官は困る。それは不自然である。という事情。
どこの国でも そうだろうが、それが 宮廷というものである。

ちなみに、氷河への女帝からの命令は、『シュヴァリエ・デオンの性別を探ってこい』ではなかった。
それも含まれていたが、それだけではなかった。
追加の指令は、『もし、シュヴァリエ・デオンが男性だったなら、女性にしろ』。
つまり、『事実はどうでもいいから、ロシア女帝が賭けに勝つようにしろ』というのが、女帝の命令。
デオンの性別を巡る賭けには、オーストリアのハプスブルク家、スペインのブルボン家やプロイセン、更にはイタリアや北欧の各王家も参加しているらしい。
どの王家の誰が どちらに賭けているのかは、わからない。
各々が賭けている額も わからないが、それが少額でないことは確かである。

欧州のほぼすべての王家がどちらかに賭けているという噂のシュヴァリエ・デオンの性別を巡る賭け。
その賭けに 確実に参加していない国は二国だけだった。
一つは、デオンの故国。
シュヴァリエ・デオンに関する情報を最も多く握っているはずのフランス王室は、革命の只中にあるため、まず間違いなく不参加。
もう一国は、英国王室。英国国王のジョージ3世。
こちらは、胴元の国の元首として、賭けの公平性、透明性を示すための不参加である。

ブックメーカーは、英国の外貨獲得のための重要なツール。
胴元が自分に有利になるよう、陰で細工をしているなどという噂を立てられて、そのツールを失うのは愚か者のすることである。
英国国王ジョージ3世は、特に名君という評価は得ていないが、彼を愚王と呼ぶ者も滅多にいなかった(今のところは)。
つまり、彼は普通の国王である(今のところは)。
フランス国王ルイ16世よりは上、ロシア女帝エカテリーナ2世よりも下。
それが 現在の英国王の立ち位置だった。






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