女帝の命を受け 英国に渡った氷河が 初めて問題の人物の姿を見たのは、ロシア女帝の挨拶の書簡を英国王に渡す公開謁見の場だった。
英国の貴族、物見高に宮廷にやってきていた他国の駐英大使たちに混じって、デオンも謁見の見物人の中に混じっていたのだ。
おそらく、ブックメーカーの大口参加者が この時期に、大した用もないのに親善大使を派遣してきた事情を汲み取った英国王のサービスだったに違いない。
氷河は、有難く、問題の人物を遠目に 観察させてもらったのである。

シュヴァリエ・デオンは、女官としてエリザヴェータ女帝に仕えたこともあるというのだから、かつては女性と見紛う種類の美貌の持ち主だったのだろう。
しかし、今は、(よわい)60の老人である。
別の意味で男女の区別がつかなくなりつつあったが、氷河の見たところ、シュヴァリエ・デオンは間違いなく男性だった。

そもそも戦争に従軍し負傷した(当然、従軍医師の治療を受けた)人物に、女性かもしれないという疑惑が生じること自体が疑惑でしかない。
それは、どう考えても、ひと騒ぎ起こして 大金を得ようという詐欺師の所業。
詐欺師が デオン当人か英国王ジョージ3世なのかは判断に迷うところはあるが、そんな企みに、暇を持て余した各国王侯貴族が面白がって乗ってしまった――ようにしか、氷河には思えなかった。
7年戦争、アメリカ独立戦争で敵対し、もともと関係が良好ではないとはいえ、隣国フランスでは、王政が覆ろうとしているというのに。
フランスとはドーバー海峡で隔てられている英国には、フランスの革命は、文字通り、対岸の火事としか見えていないようだった。

シュヴァリエ・デオンは、賭けに乗る人間を増やすためなのか、わざと韜晦に走っている――ように、氷河には見えた。
彼(彼女)は、公の場に軍服を着用して現れたり ドレスを着て現れたりするのだが、ドレスの時には粗野に振舞い、軍服の時には 不気味な しなを作ることが多い――ように、氷河には感じられた。
化粧も、ドレス着用の時より 軍服着用の時の方が大袈裟。
それらのことを、おそらく デオンは 意図的に行なっている――と、氷河は思った。

シュヴァリエ・デオンがどう振舞ってみせようと、彼(彼女)が男性だということは ほぼ確実。
判断に迷うようなものではないと思ったのだが、氷河は、故国で、男性より たくましい女性を多く見知っていたので、物的証拠も 信用できる証人もなしに、彼を軽々に 男性と断じることはできなかった。
それ以前に、デオンの性別が男だろうが女だろうが、そんな“事実”は ロシア帝国には どうでもいいことなのだが。
そして、そんな“事実”はどうでもいいことなのだという事実が、氷河にとっての最大の問題だった。
シュヴァリエ・デオンが男性なら、氷河には、彼を女性であることにするという任務が発生する。
金を渡して、彼自身に 自分は女性だと公言してもらうのが最も 手っ取り早く平和的な対応法なのだが、その手を使う場合は、渡す金額が問題だった。

女帝が賭けている100万リーブルを失わないために、100万リーブルを賄賂として渡すことはナンセンスである。
出せるとしても、上限はせいぜい20万リーブルくらいのものだろう。
もし、この賭けに500万リーブルを賭けている王室があったとしたら、その王室は、500万リーブルを失わないために50万リーブルくらいは出すかもしれない。
現在の欧州に、ロシア帝国以上の経済力を有する王室は存在しないが、万一ということもある。
そして、その賄賂は 既にシュヴァリエ・デオンの手に渡ったあとかもしれないのだ。
そのやり方は、あまり賢明な対応とは言えなかった。
そもそも賄賂の拠出を女帝が認めたとしても、その取引をデオンに伝えることが至難の業だったのだ。

賭けの元締めである英国王ジョージ3世は、ブックメーカーの公平性を守るため、現在 デオンの身柄は ほぼ完全に英国王室の管理下にあった。
賭けに参加している王室の関係者が ジョージ3世の許可なく、シュヴァリエ・デオンに接触を持つことはできない。
接触回避のため、デオンの身柄をセント・ジェームズ宮殿からバッキンガムハウスの一角に移動させ、不正を企む者がシュヴァリエ・デオン当人に接触できないよう、護衛兵もつけていた。
その護衛兵が、ありとあらゆる意味で難物だったのだ。






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