「また、あなたですか。もちろん、今日も 国王陛下の面会許可証は持参されていないんですよね? であれば、リアさんとの面会は許可できません。お帰りください」 瞬は、デオンを 女性名のリアで呼ぶ。 デオンのいるフロアに続く廊下の手前にある控室。 瞬に そのセリフを言われるのは、今日で既に10回目。もしかしたら、11回目。 デオンに面会できたら、それは有難いことだが、会って楽しいのは デオンより断然 瞬の方だったので、瞬の 素っ気ない対応に、氷河が落胆することはなかった。 勝手知ったる瞬の控室。 氷河は窓際に置かれていた似非ロココ風(形はロココ風だが、華美な装飾は排除された)肘掛け椅子に、瞬に勧められたわけでもないのに、勝手に 腰を下ろした。 10回目(もしかすると11回目)ともなると、瞬も 氷河の図々しさには慣れてしまっている。 氷河の長居の意思を示されて嘆息し、瞬は――瞬も、掛けていた椅子に再び着席した。 氷河の来訪まで、瞬は読書をしていたらしい。 ものは、ヴォルテールの『哲学書簡』。その脇に、モンテスキューの『法の精神』。 フランスでの革命勃発の報がロシアにもたらされた時、女帝が激昂して 壁に叩きつけた啓蒙思想家たちの書だった。 瞬ほど美しい少女が男の恰好をして 宮廷に軍人として出仕しているのは、瞬の家が、身分は貴族だが 実入りのいい領地を持たない貧乏貴族で、娘の持参金を用意できない状況にあるから――なのだろう。 昨今の英国では、持参金を用意できないせいで娘を嫁に出せない体裁の悪さを隠すために、娘を男子と偽る家が少なくなかった。 その事実は 氷河には好都合で、だから 氷河は、許可されないと わかっているデオンとの面会を求めて、瞬の許に通い続けているのである。 氷河は、故国に広大な領地――英国全土の数倍の面積の領地――を持つ大貴族。 配偶者となる人には、1リーブルの持参金も求めていなかったから。 「面白いものを読んでいるな。君も、すべての人間に与えられている理性ゆえに、人はみな平等であるべきだという思想の持ち主なのか? 現在の身分制は撤廃されるべきだと?」 持参金を用意できない貧しさのせいで 結婚もできない貧乏貴族の娘が 現体制に不満を抱くのは、ごく自然なことである。 その問題を、革命ではなく 他の方法で解決する術もあるという事実を示そうとして、氷河は瞬に尋ねたのだが、瞬の返答は、氷河が期待していたものとは 全く趣が違っていた。 「あ、いえ、そういうわけではないんです……。もちろん、人は神の前に誰もが平等なんですから、現世でも そうあることが望ましいとは思いますが、今 フランスで起こっている革命は、あまりに急速に、あまりに急激に、無残な現実を 崇高すぎる理想に置き換えようとしている。危険だと思うんです。既に、革命の名のもとに、あらゆる身分で、多くの人が命を奪われています……」 「……」 瞬は、我が身のことより、海を隔てた隣国の惨状を憂えているらしい。 英国には、前世紀、護国卿クロムウェルの手で国王チャールズ1世が処刑され 王政が途絶えたが、共和政政府の失政によって 僅か10年後に王政が復古――という歴史的経験がある。 急激な社会体制の変革は 誰にとってもよいことではないと考えて、瞬は、隣国の行く末を案じているようだった。 英国王は対岸の火事から目を背けて、フランス生まれの老人の性別をネタに、ある意味 ノンキに遊んでいるというのに。 別の意味で、英国王は、極めて現実的かつ功利的に――冷酷に――自国のために 外貨を稼ごうとしているのでもあるのだが。 ここで、『そんなことより、自分の将来のことを心配したらどうだ』などと言ったら、瞬に軽蔑されてしまいそうなので、氷河は黙り込んだ。 そんな氷河を見やり、瞬が、少々 自虐の気味のある微笑を浮かべる。 「革命の被害拡大を抑えるために何をするでもなく、安全な場所で、こんなことを言っている僕が いちばん卑怯なのかもしれません……。リアさんも、故国の現状を憂いているのに……」 対峙する相手の沈黙の意味を読み取り、その意味を事実より好意的に解釈する瞬の優しさ、善良さ。 それが、氷河には 好ましく感じられた。 美しく賢く優しい瞬。 持参金がないことさえ、氷河にとっては、美点でしかなかった。 とにかく、デオンの賭けの件を解決し、早急に帰国できるようにしなければならない。 この件を首尾よく片付ければ、女帝は上機嫌。 そのために働いた臣下の結婚も、氷河が しばらく領地に引きこもることも 快く許してくれるだろう。 瞬を妻にして帰国。しばらく王宮には出仕せず、領地で蜜月を楽しむ。 氷河の計画は――計画だけは――万端 整っていた。 その計画を計画倒れにしないために――氷河は 何としても、デオンを女性だということにしなければならなかったのである。 万一、女帝が賭けに負けるようなことがあったなら、ロシアは100万リーブルを失い、美術館建築の資金も得られず――機嫌を損ねた女帝は、その失策を氷河の責任にし、嫌がらせで氷河の結婚を許さないことくらい、平気でやりかねない。 “領地を召し上げる”ではなく、“損害を弁償させる”でもなく、“結婚を許可しない”。 女帝は そういう方向に動く。 ある意味、賢明な、そういう君主なのだ、ロシアの現女帝は。 はるばる英国までやってきて、ついに巡り会った、理想以上の美少女。 これは運命の恋である。 運命の恋を、権力などという無粋なものに引き裂かれて たまるかと、もし そんなことになったら、それこそ嫌がらせで革命に身を投じてやると、氷河は半ば本気で(残りの半分は嫌がらせで)思っていた。 もちろん、賭けに勝ち、女帝の許可と祝福を受けて、瞬と結婚できるのが最善であるし、氷河は必ず そうするつもりだったが。 「若く美しく、才にも恵まれているのに、こんなところで 道化た性別不明の老人の見張り番をしているのは、おまえも不本意だろう。俺は、可能な限り 急いで この馬鹿げた茶番をやめさせ、この任務から おまえを解放してやる。もう しばらくの辛抱だ」 「氷河……」 限りある人生の貴重な時間を、別のことのために使いたいという思いは、瞬の中にも確として あったものらしい。 氷河の宣言に、瞬は、少し気弱げに笑い、縦にとも横にともなく首を振った。 「それでも、僕も氷河も国益のために努めているわけですから……。無理はなさらないでくださいね。氷河に協力できないのは心苦しいですけど……。僕、リアさんのお世話が 苦なわけではないんです。リアさんは立派な方ですし」 立場上、瞬はそう言うだけで精一杯、それ以上のことを言うわけにはいかないのだろう。 だが、瞬の瞳は、恋の成就への期待に満ちている――ように、氷河には見える。 その瞳は、無言で雄弁に、『二人の愛を実らせて』と強く願っている――ように、氷河には見える。 氷河は、もちろん、自分の目に見えるものを信じたのである。 |