『ナターシャちゃん、こんにちは。 まいにち、ちゃんと ごはんをたべていますか。 ひょうがは、おとなのごはんしか つくったことがないから、あまいものをたべたいときは、ちゃんと ひょうがに おねがいしてね 』 『ナターシャちゃん、こんにちは。 かみは、ひとりでむすべるようになりましたか? なんでも ひとりでできるようになろうとするのは りっぱだけど、ときどきは、ひょうがにも てつだわせてあげてね。 ひょうがは きっと、おおよろこびで、ナターシャちゃんの おてつだいをするでしょう 』 『ナターシャちゃん、こんにちは。 ナターシャちゃんが ほしがっていた あおいスカートを、ひょうがは かってくれましたか―― 』 書いては破り、破っては書き――。 自分の手紙がなぜ しっくりこないのか、その原因に瞬が気付いたのは、買ってきた桜色の便箋を10枚も無駄にしてしまってからだった。 ナターシャへの手紙なのに、氷河を『パパ』と書けない。 自分が書くナターシャへの手紙の違和感の原因に気付いて、瞬は 手にしていたペンを、便箋の上に落としてしまったのである。 それは ころころと便箋の上を転がり、便箋の外に出たところで、我にかえったように転がるのをやめた。 ナターシャは可愛い。 つらい思いをしてきた分、ナターシャには誰よりも 幸せになってほしいと思う。 ナターシャを自分の手で育てると決意した氷河の気持ちも わかる。 ナターシャを、人間として、人間の世界で生きていかなければならないものにしたのは、氷河なのだ。 満足な子育てができる状況にない――などという 尤もらしい理由で、ナターシャを他人の手に委ねることは、氷河には 卑怯で無責任な行動でしかないのだろう。 誰もが、氷河に子育て――しかも、女の子の養育――など無理に決まっていると言い、氷河の決意に反対している。 翔龍の父である紫龍でさえ―― 一人の子供の父である紫龍だから――反対している。 だからこそ自分は――自分だけは、氷河の味方でいてやらなければならないと思うし、そうするつもりでいる。 だというのに、どうして――どうして、こんなに寂しいのか――。 そう考えて、瞬は初めて気付いた。 「そっか……。僕、寂しいんだ……」 一瞬の迷いもなく 命を預けることのできる、深い信頼と強い絆で結びつけられた仲間同士。 その関係は、この先 自分たちの身に何があっても――たとえ死んでも――消え去ることはない。 それは わかっているのに、寂しい。 そうだったのだと腑に落ちて――腑に落ちた途端、瞬はナターシャの手紙に書く文章が 全く思い浮かばなくなってしまった。 ミニチュアのポストを買ってから、もう4日。 そろそろ 子供は、待ちきれなくなる頃だろう。 誰か、自分の代わりにナターシャへの手紙を書いてくれる人を探すしかないか――と思った時、瞬のスマートフォンにメッセージが届いた。 よりにもよって、氷河から。 たっぷり30秒 ためらってから、メッーセージを表示させる。 メッセージの内容は、極めて重要なものだった。 『ナターシャが、普通サイズの手紙は あのポストに入らないのではないかと心配している。ナターシャへの手紙は、小さめの封筒で頼む』 もう4日も会っていないのに、4日ぶりのコンタクトが これ。 「手紙のサイズ……?」 腹を立てもせず、ナターシャの鋭い指摘に慌てている自分に、瞬は呆れた。 だが。 ナターシャは、瞬からの手紙を心待ちにしているのだ。 そして、瞬からの手紙が届かないのは、ミニチュアのポストに 瞬が書いた手紙を投函できずにいるからなのではないかと案じている。 そんなナターシャを、自分の身勝手な寂しさに巻き込むわけにはいかない。 瞬は急いで、一度は 目につかないところに しまい込んだポストを、再び箱から取り出した。 投函口の大きさを確認して、ナターシャが疑いを抱かないサイズの封筒を用意しなければならない。 自分たちが子供だった頃には、まだ 時折 見掛けることもあった、そのフォルム。 少し 弛ませて投函したことにすれば、ナターシャを納得させることは可能だろうか。 瞬は、用意していた封筒を 実際にミニチュアのポストの投函口に当てがって確認したのである。 便箋は 小さく折ればポストの中に収めることができそうだったが、封筒は入りそうにない。 瞬は、肩を落とした。 ナターシャは、氷河と違って注意深い少女で、小さな矛盾や齟齬を見逃さない。 『昔のポストなら、昔の人に お手紙 出せるネ!』と、不思議なことや魔法を素直に信じる一方で、ポストの投函口と手紙のサイズの不整合には気付く(心配する)のだ。 『青信号は、どうして 緑色なのに 青信号っていうの?』 『女の子用と男の子用のお洋服のボタンの位置が逆なのは なぜ?』 氷河が答えに詰まるたび、代わりに瞬が答えてやっていたのだが、ナターシャの なぜなぜどうして攻撃を、アクエリアスの氷河は一人で迎撃できるだろうか。 ともあれ、ナターシャへの手紙の封筒は、ナターシャに疑われないように、一回り小さなものを使った方がよさそうである。 瞬が そう判断したのは、もしかしたら、ナターシャへの手紙を書く作業を明日に延期する理由を求めてのことだったかもしれない。 幼い子供への手紙一通に こんなに苦労することになるとは。 自身の未熟を情けなく思いながら、小さなポストを再び 箱の中に戻そうとした瞬は、その段になって初めて、ポストの異常に気付いたのである。 ポストの中に何かが入っている――。 ポストの中から、乾いた枯れ葉のような音がする。 そんなことは あるはずがないのに。 4日前、ミニチュアのポストを買ってきた日、その内部を確認するために、瞬はポストの帽子を外した。 中には確かに何もなかった。 何かを入れた記憶もない。 そんなことがあるはずはない。 あるはずはないのに――訝った瞬がポストの蓋を開けると、そこには一枚の紙が入っていていたのである。 便箋やハガキの類ではない。 罫線も装飾もないA4サイズの白い――もとい、以前は白かったと思われる薄茶色に変色した、俗に言うOA用紙。 それが念入りに8つに畳まれて、その上で丸められた形で、ポストの紙入れ部分に収まっている。 変色の具合い、紙の毛羽立ち具合いからして、相当古い――保存環境にもよるだろうが、10年、もしかすると20年は昔のものである。 30年より 古くはないだろうと思うのは、この手の用紙が一般に流通するようになったのは、パソコンや家庭用プリンターが量産されるようになってからだったろう――という外部要因での判断による。 紙そのものの古さの判定に関しては、瞬は門外漢だった。 そんなものが、なぜ、いったい いつのまに。 『昔のポストなら、昔の人に お手紙 出せるネ!』 夢見るように そう言ったナターシャでも、この現象は受け入れないに違いなかった。 『ポストは、お手紙を出すところでショ。お手紙が届くところじゃないよネ!』 きっと、彼女は そう言う。 同じことを、瞬も思った。 だが、瞬は、過去に行ったことがある。 海の底に行ったことも、死者の世界に行ったこともある。 時空の歪みが思いがけない現象を引き起こすことも、常識を備えた一般人に比べれば柔軟に認め 受け入れる心の土台があり――だから 不思議な予感に囚われながら、瞬は その紙を手に取り、広げてみたのである。 時の流れを感じさせる変色、毛羽立ち。 紙の折り目に印字されている文字は 少し かすれて読みにくくなっている。 印刷されている文字は、ひどく荒い。 もしかしなくても、それはドットインパクトプリンターで印字されたもので、この文章を印字した人間がアンティーク趣味の持ち主でない限り、この文書は確実に15年以上は昔に作成されたものだった。 なぜ。いつ、誰が。どうして、どうやって。そして、なぜ ここに。 幾つもの疑問詞を少しでも減らすために、瞬は その文書を読み始めたのである。 それは手紙だった。 時間を超えた、自分自身への手紙。 “自分自身”は、瞬ではなかったが。 |