世界は理不尽で、人生は不公平だ。 善良な人間も 邪悪な人間も、同じように その命が有限だなんて。 人間がみんな、いつか必ず死ぬのは仕方がないと思うんだ。 人間が誰も死なずに増え続けたら、限界を越えて荷物を積み込んだ船みたいに、いつか この世界は沈没してしまうだろうから。 だから、人が死ぬのは仕方がない。 でも、若く美しく心優しい人が死んで、生意気で非力で 生きてたって何の役にも立たないガキが生き延びるのは、理不尽なことだと思う。 たとえ そうなることを、若く美しく心優しい人が望んだのだとしても。 マーマが そうなることを望んで、俺の命を守ったのだとしても。 その日、俺は、俺のたった一人の肉親、俺が この世界で愛している 唯一の人を失った。 北の海。冷たい水――氷より もっと冷たい水。 季節が冬でさえなかったら、もっと多くの命が救われていただろうが、真冬の大型の船の沈没事故は この地上から 一度に50以上の命を消し去った。 俺は マーマの命の代償に与えられた艀舟の隅っこで、全身 凍ったようになって、沈む船の甲板に立つマーマの姿を、ただ見詰めていた。 俺が乗っているのは、大人が6人乗れば それだけで満員になる古ぼけた木製の小舟。 俺は、その7人目。 頼りない小舟は 沈みゆく船の巻き添えを食わないように、沈みゆく船から急いで離れる必要があって、小舟を任された船員は 壊れそうな櫂を必死になって動かしていたけど、そんなことは 俺にはどうでもいいことだった。 マーマが残った船が傾き、沈んでいくのを、遠ざかる小舟の上から、無言で、俺は ただ見詰めていた。 絶対に見えていたはずはないのに、俺には見えていたんだ。 マーマが最後まで俺を見ていたこと。 最後まで俺の名を呼んでいたこと。 最後に、マーマの唇が、『氷河、幸せになって』と動いたこと。 沈没船から海に下ろされた小舟は、俺が乗った小舟を入れて6艘くらいあったろうか。 沈みゆく船から それぞれの方向に逃げた小舟は散り散りになり、マーマが残った船の姿が海上のどこにも見えなくなった頃には、俺(たち)の乗った小舟は、何も見えない海の上で一人ぽっちになっていた。 数時間、海の上を漂って、結局、俺たちの乗った小舟を引き上げてくれたのは、見たことのない模様の帆を掲げた大きな帆船。 俺よりは 海のこと、船のことを知ってるはずの船員が、どこの国の船だろうって ぼやきながら不安がってたから――それは、まさに、正体不明の謎の船だった。 大きな帆船の甲板に、小舟ごと引き上げられてから――俺と同じ小舟に乗っていて、俺と一緒に その外国船に拾われた大人たちも、詳しいことは教えてもらえなかったみたいだから、俺みたいな子供には どんな情報も伝えられなかった。 でも、その船が 訳ありの船だってことは、俺にでも感じ取れた。 普通の商船を装ってたけど、もしかしたら軍船だったのかもしれない。 甲板には、覆いを被せられて投石器みたいなのが置かれていた――隠されていた――し、船の乗組員が変だったんだ。 いい方に変っていうか、変な方に変っていうか。 帆船を操っている男たちは、みんな、変に礼儀正しかった。 船乗りって言われたら、誰もが思い浮かべる荒くれ男がいなくて、身なりも きっちりしすぎてる。 漁師の粗っぽさがなくて、商人の抜け目のなさも感じられなくて、でも、挙動に隙や無駄がない。 軍船でないなら、他国の情報収集に来てる偵察艇とかか? 乱暴じゃなくて 礼儀正しいのに、恐い。 やっぱり、どっかの国の軍船なのかな。 最寄りの港に(つまり、ヒュペルボレイオスの国の港に)寄港はできないと言う。 ということは、敵国の船? まあ、そんなこと言っても、俺の故国ヒュペルボレイオスの敵国ってのが どこなのかを、俺は知らないんだけど。 世界の北の果てにある俺の故国ヒュペルボレイオスは、広くて のんびりした国で、もう何百年も戦争をしたことがない。 隣り同士で 毎年毎日 せこい喧嘩を繰り返してる、人口過密のギリシャの小さな都市国家たちなんかとは、わけが違うんだ。 食事も寝る場所も提供するし、寄れる港まで 連れていってやるから安心しろと言ってはくれたけど、船の中を勝手に歩き回るなって、脅すように厳しく釘を刺されて、俺と一緒に助けられた大人たちは、こんな得体の知れない船に拾われてしまった自分たちがどうなるのかっていう不安で青ざめていた。 けど、俺は、マーマを失ったってこと以外、何も考えられずにいたのが幸いして(?)、何も恐くなかったし、どんな不安も感じていなかったんだ。 ただ、マーマからも 故国ヒュペルボレイオスからも離れて南に進んでいく船に 感傷みたいなものを押しつけられて(船には、そんなつもりはなかったろうけど)ぼんやりしてた。 感傷的な気持ちってのは、言葉で言い表わしにくいから、だから、思考が形にならないんだよ。 いろんな気持ちが頭の中で泡みたいに次から次に生まれてきて、すぐに弾けて消えちまう感じ。 論理的に思考を組み立てられない。 そんなふうだったから、俺は、論理的に(けど、無意味に)不安がる大人たちから離れて、その船の船尾に立って、北の方の水平線を視界に映しながら、死んだみたいにぼんやり立っていたんだ。 そんな俺に、突然、 「泣かないで」 って、声を掛けてきたのが、俺より小さな子供――可愛い女の子だったんで、俺は びっくりした。 こんな子供 ―― 女の子が乗ってるってことは、この船は軍船じゃないってことだよな? いったい何なんだろう、この船は。 ていうか、この子は、なんで こんなに綺麗なんだ? なんで こんなに綺麗だと感じる? マーマじゃないのに。 とにかく、俺はすごく びっくりした。 こんな小さな子が この怪しげな船に乗ってることにも、その子が 花の精みたいに綺麗で可愛いことにも、それから、『泣かないで』って言われたことにも。 だって、俺は、泣いてたつもりはなかったから。 自分でも、泣いてたのか 泣いてなかったのか、よく わからないけど、少なくとも 俺は涙は流してなかったんだ。 頬が涙で濡れてたなら、これは 波しぶきだと言い張ることもできたんだけど、俺の頬は濡れてなかったから、俺は自分が泣いてることを ごまかしてしまえなかった。 こんな可愛い子の前で、カッコ悪いったらない。 その可愛い子が、 「泣かないで。心細いかもしれないけど」 って。 その子が、俺が泣いてるって決めつけてるから――実際 俺は泣いてたんだけど、それを他人に見透かされたのが癪で、体裁が悪くて、むかついて、俺は その子を、 「うるさい! おまえに、俺の気持ちがわかって たまるかっ。俺のマーマが死んじまったんだぞっ!」 って、怒鳴ってた。 たった今 会ったばっかりの、赤の他人の この子が、そんな 俺の個人的事情なんて知るわけないのに、知ってたって他人事なのに、俺が しょんぼりしてたから 慰めてくれたんだろうに、なのに、俺は。 「ごめんなさい……」 謝るようなことなんかしてないのに、その子は俺に謝って、俺の前で しょんぼりと項垂れた。 俺より小さな子なのに、すごく可愛い子なのに、俺は いったい何をしてるんだろう。 「簡単に謝るなよ! おまえ、何か、俺に謝らなきゃならないようなことをしたのか? してないだろ!」 自分でも自分がわからなくて、支離滅裂状態になった俺の怒鳴り声を聞きつけたのか、甲板にいたおっさんが(もしかしたら――もしかしなくても、少し距離を置いて、俺に声を掛けてきた子を見守っていたのかもしれない)滅茶苦茶 慌てた様子で飛んできて、俺の襟首を掴みあげた。 「何を偉そうに わめいているんだ! 放っておけば死んでいたところを拾ってもらっておきながら! 瞬様が助けてあげてと言うから、助けてやったのに、この恩知らずが!」 そのおっさんに(もしかしたら若いのかもしれないけど、俺から見たら、十分に おっさんだ)、汚れた雑巾みたいに摘ままれた俺の足は宙に浮いて――俺は、かなり本気で、そのまま海に投げ捨てられるかと思った。 俺は、だから、そいつの手から逃れようと、空中で両脚を ばたつかせたんだ。 つまり、俺は――マーマが死んで魂の抜け殻になったみたいな気分になってたのに、マーマがいない世界で一人で生きていくことに どんな意味があるんだろうって投げ遣りな気分になっていたのに、なのに、俺は 海に投げ捨てられたくなかったんだ。 俺は死にたくなかった。 マーマが、もう、いないのに。 俺に声を掛けてくれた可愛い子は、“シュンさま”っていうらしい。 無礼な男に 摘まみ上げられて足をバタつかせてる俺を見上げて、瞬サマは、俺を摘まみ上げてる男の上着の裾を掴んで、俺を解放するように言ってくれた。 「だめ! いけないのは、僕なの! 僕が、何も知らずに、無神経なことを言ったの!」 「そのようなことは――」 「だめ。下ろしてあげて。お母様を亡くされたんだそうです。僕が、考え無しなことを言ったの!」 「……」 乱暴者は、“いけないのは瞬サマ” っていう意見には賛同できずにいるみたいだったけど、瞬サマの言うことを聞いて、俺を下に下ろしてくれた――いや、下に落としやがった。 でも、俺は腹は立たなかったな。 乱暴者の乱暴のせいで 甲板に尻餅をついた俺に、瞬サマが、 「ごめんなさい」 って言いながら、俺に手を差しのべてくれたから。 小さくて綺麗な手だった。 漁師の手でも、船乗りの手でもない。 もちろん軍人の手でもない。 瞬サマは、手だけじゃなく、目も綺麗だった。 俺が瞬サマを、マーマじゃないのに 物凄く綺麗だと思ったのは、瞬サマの目が 信じられないほど澄んでるからだった。 肌も綺麗、表情も優しげ、印象は やわらかくて温か、顔の造作も文句のつけようがなく可愛い。 俺は ぽかんとして、それから、うっとりした。 マーマじゃないけど、これなら好きになってもいいなあって思った。 そうしたら急に、生きる気力が湧いてきて、俺は まず何を置いても自己紹介をして、瞬と仲良くなろうって思ったんだ。 なのに、邪魔が入った。 俺を摘まみ上げたおっさん(もしかしたら若いのかもしれないけど、俺から見たら、十分に おっさんだ)とは別のおっさん(もしかしたら若いのかもしれないけど、俺から見たら、十分に おっさんだ)が、最上甲板の船室の方から 俺たちがいるとこまで下りてきて、俺の邪魔をした。 「瞬様。兄上様が お呼びです」 誰だ、兄上様って。 俺の瞬の兄上サマっていうんだから、瞬の兄貴なんだろうけど。 てことは、瞬は、兄上サマと旅行中だったんだろうか。 瞬の兄貴なら、そりゃあ 仲良くしといた方が 色々都合がいいだろうとは思ったんだけど、俺の瞬が、 「あ、はい。すぐ、行きます」 兄上サマの呼び出しに応じて、俺の前からいなくなりそうだったんで、俺は 瞬の兄貴に反感を抱いた。 別に、瞬を“お呼び”するのは構わないけど、何も瞬が俺といる時に“お呼び”することはないじゃないか。 気の利かない兄貴だ。 瞬だって、俺との話の腰を折られて、気分を害したに決まってる。 でも、瞬は、きっと俺のために、気分を害した素振りを表に出さず、俺のために、俺を摘まみ上げたおっさんに、 「その人に優しくしてあげて。親切にしてあげてください」 って、言ってくれた。 さすが、俺の好きな人だけあって 優しい。 おっさんは、おっさんの半分くらいの背丈しかない瞬に、 「はい」 って答えてから、上半身を45度くらい傾ける お辞儀をした。 |