瞬は、すごく偉い人なんだろうか。
若いおっさんは 俺には乱暴だったのに、俺より小さい瞬には 従順な いい子で、瞬が その場を立ち去っても、乱暴者には戻らなかった。
おっさんは、俺を子供扱いして、ガキをあやすみたいに、俺の頭を大きな手で ぽんぽん叩いた。
これが“なでなで”だったら、いくら寛大な俺でも『子供扱いするなっ!』って怒鳴ってたと思うけど、ぽんぽんだったから、俺は ぎりぎりのところで我慢できた。
そして、おっさんは 俺に言った。

「おまえ、遭難で、おふくろさんを亡くしたのか? それは気の毒だったな。……が、瞬様には、最初から母君がいないんだ。瞬様のお母上は、瞬様を産んで まもなく亡くなられた。だから、瞬様には おまえの気持ちはわからないかもしれない。手に取るようには わからないかもしれない。だが、たとえ 何を言ったんだとしても、瞬様は優しい気持ちで、おまえを力付けようとして、そう言ったんだと思うぞ」
「……」
瞬にはマーマがいない。
そう知らされた途端、俺は 瞬を怒鳴りつけたことを、海の底より深く後悔した。
最初からマーマがいないなんて、そんなの あんまりだ。ひどすぎる。
なのに、瞬は、マーマのことをたくさん知ってる俺のことを励まそうとしてくれたんだ。
俺は自分の冷酷を後悔した。
すごく後悔して、唇を噛んだ。
おっさんが また、項垂れた俺の頭を ぽんぽんする。

「瞬様は、おまえに好意を抱かれたようだ。多分、なるべく早く故国に帰れるようにしてやりたいと考えて、兄上様に進言されるだろう。瞬様の願いを、瞬様の兄上様は聞き入れるだろうから、この船は、予定を変更して、近くの港に寄港することになるだろうな。おまえたちは 明日には 陸の上に立てるさ」
おっさんが、嬉しいことを言う。
『明日には 陸の上に立てる』ってとこじゃなく、『瞬様は、おまえに好意を抱かれた』ってとこ。
うん。俺も そう思ってたんだよ。
瞬は、俺のこと、すごく優しい目で見てた。

「俺、その前に、あの子に謝りたい」
俺は、変な下心なしに(ちょっとは あったかもしれないけど)言ったのに、
「それは無理だ」
おっさんの答えは にべもなかった。
なんでだよ !?
俺が おっさんを睨みつけたら、おっさんは俺の前にしゃがみ込んで、でかい図体を小さく丸めて、ついでに 声まで小さくして、俺に教えてくれたんだ。

「瞬様は、エティオピア王国の王子様――前国王のご子息、現国王の王弟殿下だ。本当は、おまえなんかが気安く 話をできる相手じゃない。この船は、エティオピアの国王陛下と王弟殿下のお忍び旅行の船だ。だから、国内外の危険を避けるため、疑心暗鬼を生まないように、すべてを極秘で行なっているんだ。おまえが瞬様と直接 口をきく機会なんて、おまえがアテナの聖闘士にでもならない限り、二度と巡ってこない」
瞬がエティオピアの王子様。
エティオピアってのは、北の大国ヒュペルボレイオスに対抗できるくらい強大な南の大国だぞ。
ちまちました都市国家の集まりのギリシャの何十倍も大きな国だ。
瞬が、その国の王子様 ――。

「王子様って……お姫様じゃないのかっ !? 」
ありえないだろ、そんなこと!
あんな……花より可愛くて優しくて――すごく綺麗な子だったのに!
俺は 滅茶苦茶びっくりした。
「そこに驚くのか、おまえは」
おっさんは、俺の驚きポイントに驚いて、それから、むずむずしてるような笑いを顔を貼りつけて、肩をすくめた。

「まあ、おまえが そう思う気持ちはわかりすぎるほど、よくわかるがな。瞬様が女の子だったら、さぞかし美しい姫君になっていただろう。気持ちは優しいし、気立てはいいし、あれが王子様だなんて、いろいろ勿体ない話だ。……なんだ、おまえ、その歳で もう失恋経験とは、ませたガキだな」
余計な お世話だ。
ほんと、余計な お世話だ。
でも、おっさんは、マーマを亡くしたばっかりで失恋までした俺に 目いっぱい同情したらしく、翌日 俺たちがエティオピアの船を降りるまで、俺のこと、すごく親身になって世話してくれた。

「おまえが 無事に故国に帰れるように、瞬様が 船の手配までしてくださった。この船は、東海をずっと南下してきて、今、ヒュペルボレイオスとギリシャの国境の港に入ったところだ。ちょうどヒュペルボレイオスに向かう船がいたんで、その船に おまえたち全員が乗れるよう、話がついている。船賃は払い済みだ」
おっさんは、俺に報告する ついでの(てい)で、俺と一緒に遭難した大人たちに、帰国できることを知らせてやった。

大人たちは大喜びで、船を降りる準備を始めたけど(みんな、身ひとつなんだけど)、俺は ちっとも嬉しくなかった。
俺が帰るべきところは、マーマのいる場所。
俺にはもう、故国も故郷もない。
ヒュペルボレイオスの旗を掲げた船を見て安心してる大人たちの喜びに水を差すのは気が引けて、俺は黙ってたけど。

瞬を乗せた船は、この港で俺たちを下ろしたら、すぐ航海に戻るらしい。
喜ぶ大人たちの後ろから とぼとぼと 小さな(はしけ)舟に乗り込もうとした俺のところに、例のおっさんが駆けてきて、
「瞬様からだ」
って耳打ちして、俺の手にハンカチを一枚 握らせた。
これで、涙をふけってことか?
純白のハンカチには、エティオピア王家の紋章みたいなのが刺繍されていた。

「それは、世界の東の果てから、絹の道を辿って運ばれてきた高価な絹だ。ギリシャでは、ミケーネやスパルタの王だって持っていないだろう。涙を拭くのにも役立つが、売れば一財産になる。お姫様じゃあないが、いつか また会えたらいいな」
そう言って、俺の頭をぽんぽん。

「俺は、氷河。氷河っていうんだ。瞬に伝えて。ごめん、ありがとうって、瞬に伝えて」
「ああ」
俺は 迷惑をかけることしかしてないのに、おっさんは(ほんとは20歳をすぎたくらいのあんちゃんだ)、名残惜しげに 俺の頭を幾度も ぽんぽん叩いて、最後に俺の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜて別れを惜しんでくれた。






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