その日、俺が 万神殿(パンテオン)に向かう瞬のあとをつけていったのは、神殿で 瞬が神に どんな祈りを捧げているのかを確かめることができれば、瞬の瞳を曇らせているものの正体がわかるかもしれないと考えてのことだった。
瞬は、俺と違って敬神的な人間で、3日に1度、早朝、規則的に欠かすことなく万神殿に通っていて――。
俺なんかは、『神なんか、敬ってやったところで、何もしてくれない』と思っているんだが、瞬が そうすることを否定はしない。
そうすることで 瞬の心が落ち着くのなら、何よりだと思う。
神殿に行く時間を俺の方に まわしてくれたら、俺が神よりも瞬を幸せにしてやるのに――と思ってもいたがな。
それは、さておき。

万神殿――その名の通り、特定の1柱の神ではなく、(よろず)の神を祀る神殿だ。
といっても、本当に すべての神々の像や祭壇があるわけじゃない。
ギリシャに神々が何百、何千柱いるのかは知らないが、さすがに それは無理な話。
エティオピアの都の万神殿は、神殿に入ってすぐの広間に、オリュンポス12神の巨大な彫像が置かれている、“万”を“12”で代用するタイプの万神殿だった。

広間の右手に、奥から入り口に向かって、大神ゼウス、海神ポセイドン、太陽神アポロン、伝令神ヘルメス、鍛冶の神ヘパイトス、軍神アレス――の男神6柱。
左手に、奥から入り口に向かって、ゼウスの妻ヘラ、知恵と戦いの女神アテナ、月の女神アルテミス、愛と美の女神アフロディーテ、豊穣の女神デメテル、竈の女神ヘスティア――の女神6柱。
瞬がどの神に祈りをささげるか、それを確かめるだけでも、何かがわかるかもしれない。
そう考えて、俺は瞬のあとをつけ、神殿に入っていったんだ。

だというのに、これは いったい、どういうことなのか。
神々の像と祭壇の他には、大理石の柱が立っているだけの神殿の広間で、俺は瞬の姿を見失ってしまった。
聖闘士の目を持つ俺が。
聖闘士でなくても、人の姿を見失えるような場所じゃないのに。
朝まだき、瞬の他に祈りに来ている人間もいなかったのに。
俺は、すぐに、すべての神の像と祭壇と すべての柱の周囲を確認したが、瞬の姿はどこにもなかった――瞬の姿は忽然と消えていた。

そんなことはあり得ないと、少しばかり混乱し、俺は、念のため、神殿の外周も見てまわったんだ。
無闇に でかい神殿の周囲を一周して、正面ファサードに戻ってきた時、俺は神殿の中から外に出てきた瞬に ばったり出くわした。
俺は、どういうことなのか まるで理解できず――俺は、瞬の姿を見逃すほど視力が落ち始めた老人じゃないし、瞬の姿を見失うほど注意力散漫な子供でもない――ぽかんと阿呆面を さらして、その場に立ち尽くすことになった。

俺に気付いた瞬が、
「氷河は、アテナにも祈りを捧げたりはしないのだと思っていました」
と、実に的確な指摘。
俺は、それには答えず、
「おまえは、こんなに朝早く、こっそり、神に 恋の成就でも祈りに来たのか」
と、さりげなく 探りを入れてみた。
『おはよう』の代わりの冗談程度の気持ちで、俺は そう言ったんだ。
瞬からは、『まさか』の一言が、場をごまかすための微笑と共に返ってくるだろう――と、その程度の軽い気持ちで。

だが、瞬は、『まさか』とは言わず、その場をごまかすための微笑も浮かべなかった。
代わりに、沈黙を作った。
長く沈鬱な沈黙だ。
その沈黙が終わったところで、
「僕は恋はしません」
と、小さな声で、力ない答えが返ってくる。

「え」
その短い答えが、俺には途轍もない衝撃だった。
『僕は恋はしません』
いったい、それはどういうことだ。
それは、一つの文章として おかしい。
論理的でなく、現実的でなく、あり得ないという意味で、おかしい。

俺は、瞬が好きだ。愛している。
瞬は、俺が生きているために絶対に必要な、俺の“大切な人”だ。
そして、俺は、“大切な人”を愛せれば それでいい人間だ。
俺が愛する人に、俺が愛するのと同じ愛を返してもらえたら、それに越したことはないが、俺自身は愛し返されなくても平気だ。
もちろん、瞬に愛してもらえたらいいと熱烈に願い、そのために 必死に努力もするが、瞬が俺を愛してくれなくても、俺は文句は言わない。
永遠に片思いでも文句は言わない。

永遠に片思いでも文句は言わないが、
『僕は、恋はしません』
というのは、どういうことだ?
恋は、『しない』と決めたら、せずに済むものか?
違うだろう。
意思でどうにかなるものなら、人は誰も恋に苦しんだりしないし、愛せないことや愛されないことに一喜一憂することもない。
愛すべき人を愛せない人は、意思の力で愛せばいいし、愛されないことに耐えられない人は、意思の力で、自分を愛してくれない人を嫌えばいい。
だが、それは不可能だ。

恋は、意思じゃない。
愛も意思ではないと、俺は思う。
それは、“どうしようもないもの”だ。
意思の力ではどうしようもなく、人は、恋に落ち、愛さずにいられない。
ゆえに、『僕は、恋はしません』は、おかしな文章だ。
その おかしな文章を、あえて 瞬が口にするなら、それは どう考えても、他の意味があるんだ。

「俺が嫌いなら、はっきり嫌いと言っていい。『恋はしない』なんて、そんな言い方はしないでくれ」
俺を好きになれないと、はっきり言うことができず、だから 瞬はそういう言い方をしたのだと、俺は思った。
他にどう考えられる?
『恋はしません』なんて おかしなことを、瞬が俺に告げる理由、その目的を?

『愛と憎しみは表裏一体』とは、よく言ったものだ。
『瞬は、俺を好きになって苦しんでいるのではないか』という俺のうぬぼれは、実は、『瞬は俺を嫌うあまり、苦しんでいる』だったんだ。
……ああ、そうだな。
確かに、愛することと憎むことは、時と場合によって、同じように苦しく悲しいものになる。

「迷惑なら 迷惑だと、はっきり そう言ってくれてよかったんだ。そう言ってもらえていれば、俺は遠くから おまえを見守るだけにした。俺はおまえが好きで、おまえに触れたいし、抱きしめたいが、これまで ただの一度だって無理強いをしたことはなかっただろう!」
「えっ」
瞬は、どういうわけか、半ば以上が悲嘆でできた俺の訴えに、短い声を上げて驚いた。
ここは驚くところか?
違うだろう。
違うと思うんだが、現に 瞬は驚いたようだった。
そして、
「氷河は、その……僕に触れたり、抱きしめたかったりするの?」
と尋ねてくる。
「愛しているんだから、当然だろう」
俺の即答を聞くと、瞬は 真っ赤になって、目の前に 甘いお菓子を出されて、いつまでも『どうぞ』を言ってもらえない小さな子供のように、もじもじし始めた。

瞬の そんな反応の方が、俺には驚くべきことだった。
お堅いにも ほどがあるだろうと思っていた瞬の、この馬鹿みたいに可愛い反応。
『思い切り犯してやりたくて、夜も眠れずにいる』と赤裸々な本音を ぶちまけていたら、瞬は どうなっていただろう。
泡を吹いて、ひっくり返ってしまっていただろうか。
俺は、本音を言わずにいて よかったんだろうな。
瞬が泡を吹いて ひっくり返らずにいてくれたから、俺は、
「ち……違うの。氷河が嫌いなんじゃない。氷河が嫌いなんじゃないの。僕は、恋をしてはならないことになっているんです……!」
という、瞬の悲痛な訴えを聞くことができたんだ。






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