「ふーん。二人共、自分のことだと思って、同時に『それほどでも』くらい言ってくれたら面白いと思っていたのに」
氷河に好意を示して無下にされたことへの意趣返しにしては、そのターゲットが定まっていないようである。
そういう場合、意趣返しの対象は 自分を振った相手か、そのパートナーのどちらか一方になるのが一般的で、両方に 怒りや憎しみが向くことは少ない。
うまくいかなかった恋の逆恨みや 嫌がらせの焦点がぼやけているという状況は、その恋が あまり真剣なものではなかったということ。
応えてくれない人が憎いのではなく、恋の障害物である恋敵を排除したいのでもなく、幸福そうな二人を妬ましく感じている――ということである。
成熟していない人間が恋に破れた時、あるいは 恋自体が未熟だった時に よく見られる現象だった。

だが、彼女は既に成人しており、そんなふうな――恋に恋する思春期の少女のように青臭い恋をしたり、恋愛未満の恋をしたりする歳は とうに過ぎている。
そんなことをするほど知性を欠いた女性にも見えなかった。

これは、恋愛や それに類する個人的感情のこじれによるものではないかもしれない。
氷河に若い女性が絡んでいるのだから、当然 色恋沙汰と決めつけたのが早計だったのかもしれない。
そもそも、氷河を見たら 大抵の女性が胸をときめかせるだろうという思い込みに、どんな論理的根拠もない。
氷河の店で、氷河の美貌に目もくれず、普通の(?)鬱憤晴らしや ただの(?)八つ当たり、単純な(?)嫌がらせをしようとする女性もいないことはないだろう。
――という常識的判断の中に、瞬は 1分弱の時間をかけて、自らを導いた。

もっとも、彼女のそれが、普通の鬱憤晴らし、ただの八つ当たり、単純な嫌がらせであるなら、何の問題もないかというと、決してそんなことはない。
普通の鬱憤晴らしか、ただの八つ当たりか、あるいは 単純な嫌がらせなのかもしれないものに、氷河がムッとする。
それに気付き、瞬は慌てて 氷河の不機嫌の機先を制した。

「所作が、とても きびきびしていて、無駄がなく 美しいです。バレエでもやっていらしたんですか」
「……こんな 痩せぎすの身体、病気でなければ、バレリーナしかいないっていうのが、瞬センセイの見立てなわけ?」
普通の鬱憤晴らしか、ただの八つ当たりか、単純な嫌がらせ ――というのが、瞬の見立てだったのだが、それは間違いだったかもしれない。
これは、尋常ならざる鬱憤晴らし、かなり強烈な八つ当たり、非常に複雑な嫌がらせなのかもしれない。
彼女の刺々しい声と言葉に触れて、瞬は考え直したのである。
だが、なぜなのだろう?

「ダイエットのしすぎで 痩せすぎた人は もっと、動作が緩慢になるんです。あなたは違う」
彼女の苛立ちの矛先を 千々に乱し分散させ 曖昧にすることで、その攻撃力を弱めるべく、微妙にずれた答えを返す。
自身の痩身を、無目的で不健康なダイエットなどと同列に語ってほしくなかったらしく、彼女は、彼女の鬱憤晴らしや八つ当たりや嫌がらせが、“普通の鬱憤晴らし、ただの八つ当たり、単純な嫌がらせ”ではなく、“尋常ならざる鬱憤晴らし、かなり強烈な八つ当たり、非常に複雑な嫌がらせ”になっている理由を瞬に語ってくれた。

「私は、アキレス腱断裂っていう、実にありふれた理由で、プロのバレリーナになることを諦めたばかりのバレリーナよ。バレエ以外、何もできないのに」
「バーは やけ酒を飲むところではないぞ。目的がそれなら、居酒屋にでも行け」
こういう時だけ、氷河の対応が早いのは、それが瞬には期待できない対応だからなのか。
この店の客を この店から追い出すことは、確かに 瞬にはできないこと――この店の主にしかできないことだった。

好ましくない客を店から追い出す権利を、氷河は有している。
それは紛れもない事実だが、とはいっても。
「氷河!」
夢を諦めざるを得なくなって 心が弱っている人に、もう少し優しい言い方をしてあげてもいいのではないかと、暗に瞬は氷河を たしなめたのである。
ところが、
「仕方ないでしょう。居酒屋って、食べるものもオーダーしなきゃならないし、一人で入れないから、私は行けないのよ!」
夢を諦めたばかりの失意のバレリーナは なかなか気丈だった。
氷河に きつい口調で噛みついて――彼女は あろうことか、黄金聖闘士に喧嘩を売るという、常人にはできない芸当をしてのけたのだ。

「ならば、家で飲め」
「家で一人で飲んでたら、死にたくなるのよ! どうせ死ぬなら、美味しい お酒を飲んで死にたいでしょ。末期(まつご)の酒が 不味いなんて最悪だもの。だから、私は この店に来たの。光栄に思ってほしいもんだわ!」
「光栄に思えだと !? 」
言い返したいことは 多々あったのだろうが、氷河は反駁しなかった。
そして、その喧嘩に負けた(てい)を装ってやる。
バレリーナには 家族や同居人はいないらしい。
一人で飲んでいると死にたくなるという人間を、一人暮らしの家に追いやることはできない。

黄金聖闘士との喧嘩に勝利し、氷河を黙らせたバレリーナは、勝利の笑みを浮かべて、今度は その視線を瞬に向けてきた。
「前に、この店で、マッチョすぎて デブにしか見えない厚化粧のおじさんが言っていたけど、あなた、お医者様だというのは 本当?」
氷河をやり込めて満足したのか、彼女は次の標的を瞬に定めたらしい。
鬱憤晴らし、八つ当たり、嫌がらせ。
彼女は、自分が傷付いているから、自分以外の人をも傷付けたいのだろうか。
それだけなのだろうか。

「はい」
「そんな人が、バーテンダーなんかと仲良しなわけ?」
『そんな人』の『そんな』の意味と、『バーテンダーなんか』の『なんか』の意味が わからない。
『仲良し』も、彼女が どういう意味で使っているのか、判断不可能。
そして、彼女は、“瞬センセイ”の性別を正しく認識しているのか。
それらの疑問をすべて解明しなければ、彼女の質問に答えることはできそうにない。
とはいえ、彼女の質問は、それらの疑問をすべて解明することまでして答える価値のある質問だろうか。

『ある』と思うことが、瞬にはできなかった。
彼女が 氷河に特別な好意を抱き、その気持ちを こじらせているのではなさそうだったので、少し 気が楽になったところもあったかもしれない。
彼女の恋の相手は、氷河ではなく、バレエという夢。
その恋に、これから どう向き合っていくのかを決めるのは、彼女にしかできないこと。
もちろん 彼女の不運には 心から同情するが、彼女に 何らかの助力を求められるのでもない限り、余人にできることは何もないのだ。

「瞬センセイ、『ステラ』っていう映画を知っている? 学もなければ 金もない、育ちも悪いワーキングクラスのバーテンダーと、教養があって 育ちもいい アッパークラスの医師の恋を描いた映画よ。結局 住む世界が違う二人は別れて、それで 二人の周囲の人間は皆、幸福になった。そういう映画」
「残念ながら、観たことはありません」
彼女は その映画が好きなのか、嫌いなのか。
その内容を受け入れているのか、反発しているのか。
瞬には判断できなかった。
もしかしたら、どちらでもないのかもしれない――と、ふっと思った。






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